あれから100日ぐらいが経過した

「離」が終わってから3ヶ月が経過した。


今となっては、というか終わる直前からそうだったが、何もかもが恥ずかしい。
僕が「離」という場で発言したことの全て。「離」に限らず、自らの過去の全て。
何かをきっかけにこれまでの人生における失言や失敗の数々が
次々にリンクしてフラッシュバックされて、
僕は「やめてくれ!」と耳を塞いでうずくまりたくなる。
逃げ出したい。全てを忘れてしまいたい。
「それ」を知る前に戻りたい。


しかし、そんなことできるわけがない。
時間というものは、一度流れてしまったものは、後戻りが効かない。


揺さぶられるだけ揺さぶられて、そこには何も残らなかった。
いや、自分というものだけが残った。
最後の最後まできちんと向き合えなかった、「自分」が残った。
僕はそれが何なのか、今でもよく分からない。
見つめることも聞くこともできない。
そんな「認識」だけが残されたのは、幸か不幸か。


ただただ、日々をやり過ごす。
僕が7月・8月と映画を見て過ごしたのは、
無差別に借りてそれが100本にも到達したのは、
何もかも投げ出して目の前のバーチャルな映像と音声の投影に
身を任せたかったからだ。現実と関わりたくない。
どこまでも受身になりたかった。
この僕には何もできない、何もなしえない、と思った。
漂うままにそっと消え入りたい。願うはただそれだけ。


受け入れるということは、そこにきちんと立ち向かうということだ。
それだけの勇気が必要とされ、自分という存在が試される。
受身のままではそれはできない。
その、どれだけ恐ろしいことか。


そう、僕がそこに見出したのは「恐怖」だった。
僕は目を閉じ、耳を塞いだ。
それでも何食わぬ顔をして日々を生きていこうとした。
時々、何気ない瞬間に壊れてしまいそうになる。
何がなんだか訳が分からなくなる。
パニック、というほどのことはない。
しかし、無数の穴に落ちて、僕という存在とその穴とが裏返しになったような、
そんな奇妙な感覚に捉われる。
うまくは言えない。


「恐怖」にも様々なものがあって、
「そこには何もないのだ」という恐怖や
「得体の知れない巨大なものに取り囲まれた」恐怖、
「もう取り返しがつかない、なす術もない」という恐怖。
あらゆるものが押し寄せてくる。
僕はその波打ち際を一人きり歩いている。
仲間は、いたかもしれない。かつて、そう、3ヶ月前まではいた。
しかし今は完全に一人きりだ。
そして人生とは、そのようなものだ。
それが、分かった。


「生きる」ということだけが残される。
「どう生きる」ということは何も分からないまま。
何も運ぶことができず、ただ、抜け殻のまま。


夏が終わり、秋になった。