先日、『赤目四十八瀧心中未遂』を観た。
大楠道代と寺島しのぶの演技が素晴らしかった。
あのピンと張り詰めた台詞回し。言葉と声と。
しかもそれが表情や仕草、立ち振る舞いと結びつく。
そうだ。映画は音ではなく、声なのだと思った。
(そして曲ではなく、唄となる)
今更ながら、ふと思う。
映画ってその言葉を話せる人が観ないことには正当に評価できないのではないか。
大切なところを感じ取れないのではないか。
本来監督が入れたものではない、字幕というものが
別の人間により別の工程で付与され、表面に貼り付いている。
映画そのものではなく、配給用のパッケージを僕らは「鑑賞」している。
「字幕を読む」という行為は「映画を見る」という行為の一部分のようでいて、
両者の間には大きな断層がある。
読むという行為は、そしてそこから付随して生まれる、
ストーリーを頭の中で再構築するという行為は
その映画を「感じ取る」(自然なものとして身体に受け入れる)
ことを妨げているのではないか。
結果、その作品を評価する基準としてストーリーのよしあしや好み、
場合によってはそれが理解できたかどうかにバイアスがかかってしまう。
文字の持つ力がそもそも大きく(情報量が多く)、
注意がそこに捕われてしまうということもある。
優れた映画ならば、字幕無しで、
語られた声の調子と役者の動き、その背景の結びつきを感じ取ることで
ストーリーの流れはつかめるものだし、
実際日本映画を見てるときはそんな厳密に耳で聞くセリフを追ってない。
なのに文字となった途端、読み飛ばすことを恐れてしまう。
その分、いろんなことを見落としているんだろうなあ。
これって僕だけ?
かといって今日からじゃあDVDで映画を観るときは字幕をオフにするか、
といったらそれはやはり怖くてできない。
文字・活字依存症。
でもやっぱ徐々に徐々に耳を慣らしていくべきなんだろうな。
英語がどうこうではなく、恐怖心を取り除くために。
『トラフィック』や『ファーゴ』など、あるいはタルコフスキー監督の諸作。
これまでに何回も繰り返し観てきて、ストーリーを把握している作品から。
近いうちにトライしてみたい。