価値観という罠

体がもう1つあったら1日中テレビを見ていたい。
地上波とBSとケーブルテレビとその他全部を朝から晩まで。
特に深夜番組。もう何年も見ていない。
何が面白いことになっているのか、よく分からない。


そう思うのは疲れてるわけではなくて。
忙しすぎて身の回りのいろんなことをブロック単位で諦めてる感じ。
バッサリ切り捨てている、そのせせこましさが疎ましい。


たまたま今1時間空いてる時間があってテレビをつけたときに、
腹抱えて笑うこともなく、有益な情報も得られず、
翌日共有できそうな感動的な試合でもない、
そうなる可能性の方が高いとなると見てても「損」だと考えて他のことを選ぶ。


…それってなんだか病んでるような気がして、そこから逃れたいという気持ち。
そういうのないですか?


気持ちに余裕がなくなっている、というのとは別の何か。
「自分の価値観至上主義」というか。がんじがらめ。
しかもそれをどこかで誰かに知らず知らずのうちに押し付けている。
なんだか、ぞっとする。
人間の行為って多かれ少なかれそういう要素を含むものだとはいえ。ねえ?


そういう人たちが集まって世の中や社会というものを形作っている
と考え出すとアタマの中がグルグルしだす。
悟りを開いた人たちの集まりは共同体にはなっても社会にはならない??
などなど。


身の回りの物事を素直に受け入れるということ、
それを自分の身体を通して素直なまま外に放つということ。
簡単なようでいてなかなかできない。
例えば太極拳も含めて武道全般ってそういうものなのか。
お茶も活け花も書道もそうなのか。
それまでの自分自身という視野から解き放たれて自由になること。
(それらを形式的に再現するものが儀式というものなのか)


先日読んだこと:
モードがメソッドを決める、モードを変えるとメソッドが変わる。


うーん、アタマの中がグラグラしている。