(「自殺」のテーマがなぜか続く)
今日の昼、床屋へ。
最近また中央線で人身事故が増えたという話から、こんなことを聞く。
奥多摩地方の山に行くと時々貼紙を見かける。
何年何月何日に訪れたはずの○○さんが行方不明、目撃情報を求むと。
読むとお年寄りが多い。それが何年もの風雪にさらされて色褪せている。
山自体は遭難するというほどのものはない。
山菜取りというのでもない。
おそらく、人に迷惑をかけずに自殺をしようとして
通常、人が足を踏み入れることのないような奥へ奥へと向かうのではないか。
僕は誰にも見つかることのなかった首吊り死体が
もう何年とそのままになって原形をとどめていない、そんな光景を思い浮かべた。
洗面台にて頭を洗ってもらいながら。
あとに残される人たちにはできる限り迷惑をかけたくない。
あくまで死体の後始末という意味では。
そんな気持ちの表れか。
あるいはただ単に消え入りたい、
世の無常を感じて自然の中に戻りたいということか。
古い時代、大人になってからの「神隠し」というのも
実際にはそういうことだったのかもしれない。
山の奥にまで来たものの死に切れず、踏ん切りがつかず、
そんな人たちが一人二人と集まって
一目を避けるようにして洞窟の奥にて暮らしている。
現世の名前や立場を捨てて、新しい名前でひっそりと。
そんな物語を僕は思い浮かべた。
床屋の椅子に寝そべって、顔を剃ってもらいながら。
主人公は首筋に括った痕を残す。
どこか未練があったのか、未遂に終わり気を失って草むらに横たわる。
それをわずかばかりの村人が取り囲む。
目が覚めて否応なしにそこに加わることになる。
仮の死を受け入れ、新しい生を迎える。そんな儀式が執り行なわれる。
そこでの唯一の掟は現世に戻らないこと、山を下りないこと。
日々が続く。季節が巡る。手に入るもので細々と、静かに暮らし続ける。
何も起きることのないまま、やがて死んでいくはずだった。
…その平穏な日々が、ある日破られることになる。
床屋が終わって外に出る。
街は大勢の人たちが歩いている。
なんとはなしに駅へと歩く。
中央線。西へ。乗っていけば、奥多摩へと向かう。