周辺というもの

メモ。
「好きなようにやっていい」と言われて、
本当に好き勝手にやったら頓珍漢なことになる。
その場における文法や文脈を無視してはならない。
これが最低限の約束事。


しかし、それらをただトレースするだけだとつまらない。
動きが無くなって色褪せていく。
そこに何かを足したり、引いたり、掛け合わせたりすると面白くなっていく。
それまでになかった視点。これまでとは異なる表し方。


そしてそれはそこに留まりつつ行なうよりも
絶えず動きを意識しながらの方がいい。
自らが動く、周りが動く。両方ある。


このとき、その場の周辺へ、縁へ、ギリギリの際へと向かうのがいい。
境界線があって、こちら側と向こう側とがあって、異質なものと出会う。
向こう側からやって来るもの。こちら側から迎えに行くもの。
この外側への、内側への行き来が新しいものを生む。
そして境界線を更新する。


何かが起きている周辺はその瞬間、(動的な)中心へと反転する。
そういう縁へ、周辺へと向かうところに自由はあるのだと思う。
(静的な、権威的な)中心へ向かう、
中心であろうとするところに自由はなくなっていく。