中華屋

近くの中華屋に入った。
何年も暮らしていて、それまで入ったことがなかった。
デリバリーがメインで、中で食べることもできるという安っぽい中華。
バイトが原付で出払ってることはあっても
中で食べてる客はほとんど見かけたことがなかった。
メニューが定期的に新聞受けに放り込まれる。
食べたいと思ったことは一度もなかった。新聞と一緒に捨てた。


夜。タカシは何も言わずそこに入った。向かい合って座った。
配達から帰ってきたばかりの若い店員がジャンパーのまま
水の入ったコップとプラスチックのテカテカしたメニューをもってくる。
タカシはエビチリとチャーハン、私は麻婆豆腐セット。
オーダーが繰り返され、厨房で炒め物が始まる。
顔の見えない料理人はアメリカの野球帽を被っていた。
店内にはうるさい音楽が流れている。英語の歌詞。英語の歌。


ガラスのコップを眺める。水。タカシが何かを言っている。
それはもう聞こえることはない。え? と私は言う。
タカシが繰り返す。私はコップをつかむ。冷えている。
ただ、握るだけ。口元に運ぶでもなく。聞こえないよ。
チャーハンが運ばれてきて、レンゲではなく箸で食べる。
麻婆豆腐。豆腐は少なくてねっとりした餡ばかりで、妙に甘かった。
窓の向こうを街行く人たちが通り過ぎていく。
この店の存在を全く知らないのだろう、
こちらに顔を向ける人は一人もいなかった。


私はゆっくり食べる。まだ半分も来ていない。
タカシはチャーハンもエビチリも途中で、携帯をいじっている。
タカシは食べるものが冷めていっても全然気にしない人だ。
それが美点なのか欠点なのか、結局分からなかった。
私が作ったものもまた冷めていったのだから、今思えば欠点なのだろう。
どうでもいい。もう終わったことだ。
私はあの時、麻婆豆腐をほとんど食べずに残した。


何年も前に住んでいた街。
思い出したいとは特に思わない。
しかし何かの弾みで頭をよぎることがある。
そのときなぜか決まって、あの中華屋が真っ先に出てくる。
麻婆豆腐の甘ったるい味と一緒に。コップの冷たさと共に。
その後しばらくはタカシと続いた。
何回目かの喧嘩になって、めんどくさいな、と気付いて別れた。
あそこで働いていたバイトの若者たちも就職したか。
店はもうないだろう。ありきたりのチェーン店だったから。


もしかしたらあの街自体がなくなっているかもしれない。
そんなことがあってもおかしくないように思う。
街の名前を、思い出せないのだから。