「汚れなき祈り」

今日は月イチで会社休んで映画をハシゴする日。
有楽町のヒューマントラストシネマがうまくスケジュール組まれてて
クリスチャン・ムンジウ監督の「汚れなき祈り」と
ミヒャエル・ハネケ監督の「愛、アムール」を続けて観ることができた。
奇しくも昨年のカンヌでパルムドールを競い合った2本。
愛、アムール」がパルムドールで「汚れなき祈り」が脚本賞と主演女優賞。
観終わって、「はしご」で”だんだんめん”を食べて帰ってきた。


クリスチャン・ムンジウ監督は前作「4ヶ月、3週と2日」がどうにも素晴らしくて。
1980年代後半。チャウシェスク政権下では中絶が非合法とされていた。
堕胎手術を闇で受けようとする友人を助けようとして右往左往する女子大生が
ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』のレオポルド・ブルームばりに
街を放浪していろんなことに出会う1日。
たったそれだけの話なのに、2時間ずっと緊張感がピンと張り詰めていて。
非常によくできたスリラー、
敵のいない、あえていえば社会や時代が追っ手となるスリラー。


今回もまた、そう。
2005年に現実に起きてルーマニア国内でセンセーションとなった事件。
孤児院で育った20代半ばの女の子が帰国して
修道女になった親友の元へ身を寄せる。
一緒に暮らしたくて修道院の生活に入り込もうとするが、
これまでのうまくいかなかった人生ゆえにヒステリックな言動を繰り返す。
手に負えなくなってきて周りの神父や修道女たちが選んだのは
「悪魔祓い」だった。監禁・虐待の果てに命を落とす。
要約するとたったこれだけの話。
それが2時間半の長さになって何のたるみもないのはさすが。


20世紀的な政治経済の枠組みの崩壊したこの現代において
信仰とは何か、信仰を守るとは何か、信仰を守るために行うべきこととは何か。
そこのところを直接のテーマとしつつ、表裏一体の関係にある、
信仰を失ったこの現代社会とは何かというところもきちんと炙りだす。


なんでこんなに映像に緊迫感があるんだろう?
長回しだから? それもそうなんだけど、
ただ単に1シーン1カットというだけではない。
語ること(行為)と語られたこと(内容)とがあったとき、
語ることよりも語られたことが大きければ要約されたり省略されている。
語ることよりも語られたことが小さければそれは修飾されている。
このとき、ムンジウ監督の視点は
語ることと語られたこととが全く同じになるような
澄み切った関係にあるんだろうな。
そこにあるものが、そこにあるものとして直接的な意味を持つ。
虚飾はなく、映像がダイレクトに突き刺さってくる。
そういうことなのではないかと思った。


「監禁・虐待はいけません」とか
「この現代に「悪魔祓い」の儀式なんて時代遅れだ」って言うのは簡単なこと。
観てれば誰でも分かるけど、
それでもそこに関係者皆が追い込まれていって他に選択肢がなくなるんですね。
昨年の尼崎の事件もこういうことなんだろうな。
閉鎖的な空間の中で生み出され、集団を支配するようになる力学。
それがこれ以上ないぐらい明確に描かれている。


それとあと語っておくべきは、
事件が明るみに出て警察官に尋問を受けるときの、主人公の全てを超越した視線。
まるでイエス・キリストの再来のような。
あれを演出として撮っているのなら、すごいな。


プロデューサーにダルデンヌ兄弟が加わっていて、そこが秘密の一端か。