メイド・イン・ジャパン

このところ訳あって
「メイド・イン・ジャパン」関係の本をまとめて読んでいる。
そういう視点で見てるとほんと携帯/ケータイってすごいなと改めて思う。
なんでこんな小さいものの中にたくさんの機能が入っているんだろう?


例えばシャープに代表される電卓。
かつてはレジと同じ大きさで卓上に置かれていたものが、
液晶になり、カード型になってとことん「小さく」なり、
太陽電池でも動くようになった。
その計算機能が、今、普通に携帯電話の中に入っている。
0から9まで同じボタンを使うとはいえ、
よくよく考えてみると電話機で計算しなきゃいけない理由というか必然性って
全くないじゃないですか。
計算機そのものも小さくなって邪魔にならず持ち運びできるというのに。
しかし今や携帯の中に無いと不便ですよね。
そんなしょっちゅう使わず、飲み会の精算ぐらいだからそれでいい。


ただ小さいだけではなく、
「携帯する」ことに意味を持たせた最初はソニーウォークマンだろうか。
これもいつのまにか音源がテープやCDではなくなって、電子データへ。
やはり携帯電話の中に取り込まれていった。
大事なことは、これら機械的な仕組を持った機能ではなくて、
in/outのデバイスと連動する「ソフトウェア」として実現されていることですね。
かつてのウォークマンのように歯車やモーターで曲を再生するのではなく、
電卓のように専用の回路を持つのではなく。
アプリケーションをインストールするだけ。
インターネットの接続も、GPSも、書籍を読むのも、単語を調べるのも、
時間を知るのも、ラジオ放送を聴くのも、SUICAの代わりも、
皆一つの携帯でできるようになった。
そしてそれは物理的なパーツの着脱は不要で
アプリを入れる容量とOSとの相性だけの問題になった。


日本の携帯は携帯で「ムーバ」や「iモード」があったり、
J-Phoneがカメラ付き携帯を出したり、auワンセグ対応したりで
独自の進化を遂げてきたけど、
今ある形となる上で一番大きかったのは
スティーブ・ジョブズが「iPhone」を出したことではないか。
それまでの日本的な製品開発って事業部ごとの縦割組織の中で
それぞれの部門が仕様に責任を持つための数値目標が大事だった。
厚さは何ミリにする、電池は何時間持つ。
開発者の限界目線だった。
スティーブ・ジョブズは違ってましたよね。
それで何をしたいかというヴィジョンが大事。
ハードウェアの性能ではなくて、iTunesに代表されるソフトウェアの選択肢。
だからたくさんの機能を詰め込んだ状態から始まる箱ではなくて、
そういうのいったんとっぱらったまっさらなウツワ。
ユーザーが好きにしていい。逆に言うと、ユーザーを選ばない。
そのイメージを浸透させるためには
真っ白なシンプルなデザインで無ければならなかったし、
ボタンはギリギリ最小限にしなければならなかった。


携帯とは通信機能と融合した最小限のPCであり、
そこで動くソフトウェア/アプリこそが大事なのだという思想は
ライバル Google が開発した OSである Android も共有することで
全世界に広がった。
ガラケーAndroid のことについてはまた別途考えたい。


携帯の将来というか「メイド・イン・ジャパン」の将来については
全世界的なデジタルの流れに追随しきらず、
デジタルな技術でアナログを再現するという
世の中に向かっていくのではないかと思う。
職人というか匠の技に戻っていく。
このこともまた別の機会に。