フィクションを読むということ

しばらく言葉を交わしていなかった友人と久しぶりにやりとりする。
以前からの病気がここ数年思わしくなくて、長い文章が読めなくなったという。
リハビリを続けることで少しずつまた本が読めるようになったけれども
小説はまだ難しい、ノンフィクションならばなんとか、とのことだった。


「小説を読むという行為は、
 思った以上に高度なことを頭の中で自然に行ってたんだなぁ」


という。


確かにノンフィクションよりもフィクションの方が
一手間・二手間頭の中で何かが起きている気がする。
自分の中で物語というかストーリーを組み立てる必要があるというか、
意味を解釈する必要があるというか。
その分能動的になる。


社会の教科書を読むときと国語の教科書を読むときでは
頭の中の使う分が違うというか。
(数学や英語もまた違う)


小説を読まない人というのが世の中案外多い。
大半は興味がない、そもそも本を読まないという人なんだろうけど、
読むのが疲れる、頭が痛くなると言ってたのを聞いたこともある。
それってこういうことなんだろうな。


文章を読むというのとはまた別の領域にある
脳の中のどこかを活性化しないと小説が読めないのかもしれない。
だから、小さいときから絵本や童話を読んでもらったり、
もう少し大きくなって自分から文学作品を読むということが
レーニングというか段階を追って能力を高めていくために必要。


英語を読むというときも、同じぐらい平易な文章であっても
ニュースの方が小説よりも読みやすいというのも同じことか。
文脈の多様性が開かれているよりも、絞られていく方が理解しやすい。


文脈とイメージが前もって与えられるから、漫画やアニメになるとさらに理解しやすい。
若者たちがそちらに流れていくというのもよくわかる。
ラノベもそうだな。なぜ表紙がアニメ調なのか。
イメージを広げる力、文脈をつないでいく力に頼らなくても読めるようになっている。
平易な文章と画像でサポートされている。
しかし受動的な読書となるため、
多くの場合ゲームに近いエンターテイメント体験となってしまう。


友だちには詩や短歌だとどうだろうか、と最初提案した。
文章量が短いから。
しかしそれはたぶんうまくいかない。
受け手がイメージを広げる力が大きく問われるから。
むしろラノベの方がまずは入りやすいのではないか。
そんなふうに思った。