益子町の陶器市へ その3

通りを歩いているうちに大きな広場に出て、そこにまたテントがびっしり…
しかも道路の反対側にも。
これは果てしないと思ってしまった。
ひとつひとつ数秒ずつ覗き込むのすら現実的ではなくなってきた。
陶器はもういいかと、昼時ということもあって替わりに屋台を見て回った。
たこ焼き、お好み焼きに始まって、ケバブ、餃子、イカ焼、じゃがバター、鮎の塩焼き。
いろいろとある中でオッと思ったのが焼き鳥の屋台の鶏皮鉄板焼き。
大きく切った鶏皮を鉄板の上で焼いて甘めのタレがかかっている。
プラスチックのパックに千切りのキャベツが敷いてあってそこにタレが絡んでおいしい。
マヨネーズ掛け放題、キムチ乗せ放題。これで500円は安い。
缶ビールを飲みつつ、アツアツをその場で食べた。
余りのおいしさに義父もひとつ買った。


屋台のひとつに枝についたままの
乾燥した唐辛子を売っているところがあって妻の足が止まる。
まだ乾燥している途中。
青いのと赤いのが混ざっているのを避けて全体的に赤く熟しているのを選ぶ。
壁にかけて、少しずつ使っていく。
一束250円と安かった。


広場の奥の方に益子陶芸美術館があってここに旧濱田庄司邸があるというので見に行く。
日本を代表する陶芸家の一人。バーナード・リーチと親交があり、
柳宗悦らとともに日用品の中に美を見出すという民藝運動を進めた。
1920年代後半に益子へと移住。益子焼を発展させた。
美術館そのものには入らず、庭園を進んで旧邸へ。
横に登り窯があった。斜面に窯が段々になっている。
後にまた別の窯元に入ったら同じく斜めにいくつも連なっていた。
義父から解説を聞く。
下の窯から火をつけて順々に上へ。
熱は上に伝わるものなので上に行けば行くほど窯の温度が熱くなる。
もちろん温度が高いほどよい。一方で低い温度で焼くのが適したものもある。
濱田邸の中は今は茶会用に利用されている。
急ぎの人は縁側でお茶が頂けますとのこと。
かつて窯を置いていたと思われる広い部屋の隅には
小さい人の背丈ほどもある大きな壷が置かれていた。
触ってみるとずしりと硬く、柔らかい。土の厚みというか。
やはりシンプルな色と形で無駄がない。


出ると14時半。結構な時間になっている。
遅くなったけど昼を食べて帰ろうということになる。
入った陶器のギャラリーのひとつで
洋食屋「古陶里」がおいしいと聞いてそこに行ってみることにする。
陶芸家の方に地図に印までつけてもらった。
ポークステーキがおいしい、こんなおいしいものはないと絶賛だった。
昼前に停めた駐車場の近く。
車を取りに行って、店に電話をかけて置く場所があるか聞いた。
おばちゃんが出てきて、予約は不要であるという。
入ったら他に客はなし。
人気店と聞いていたからこの時間も忙しいのかもと思っていた。
おばちゃん3人がやっている店。厨房に立って皿も運ぶ。
初老の男性もいたけど厨房には入らず。
誰か一人の旦那がブラブラと手伝っていたのだろうか。


ポークステーキにする。
他にカニピラフ、エビフライ、とんかつなど。メニューはそれほどない。
中は静かな洋館という雰囲気。
壁は白く、柱は黒い。アンティークな木々の飾り物がさりげなくあちこちに。
器はもちろん益子焼
取り上げられた雑誌が開かれて置かれていたので読んでみる。
昭和50年からこの地で、とあったので僕と同い年。40年か。
もしかしたらおばちゃんたちもその頃から厨房に立っていたのかもしれない。
サラダ、スープのあとでポークステーキが届く。
分厚くて柔らかい。デミグラスソースをベースにした特性のタレがおいしい。
妻が頼んだのを半分分けてもらったとんかつはさらにおいしかった。
こちらもまた分厚く、なのに柔らかい。衣もサクサクと軽い。
東京でこれだったら2,000円は軽くするだろう。
どちらも1,400円だった。
たっぷりのタレにご飯を入れて食べることを薦められ、試したらさらにおいしかった。
ここで食べるためにまた来たいなあとすら思った。
陶器市を見にきたのかと聞かれ、その帰りだと言うと
年に2回開催されていて、11月のもすごいけど5月の人手はこんなもんじゃないと。
暗くなるのはもっと遅いし、熱気が夕方までずっと続く。
そうか、5月か。


車に乗って来た道を引き返す。
16時近く。日が暮れている。のどかな田園風景の中を走る。
真岡ICを入って、壬生PAでトイレ休憩。
ここにはハイウェイオアシスがあるみたいなんだけど時間がなく、寄っていかず。
パーキングエリアの建物の裏に道の駅や公園、おもちゃ博物館があったらしい。
車に戻る。表示を見ると岩舟JCTまでずっと渋滞と出ている。
恐らくその先も渋滞だろうと都賀ICで高速を下りて下で帰ってきた。
ナビの示す道に沿っていくとひたすら東へ。
小山市の方から南下するらしい。この頃、残りキロ数が全然減らなかった。
途中、「合戦場」という地名のところを通りすぎた。東武線の駅もあった。
かつてそうだったのだろう、北条氏と足利氏が…、などとそのときは言っていたが、
後で調べてみたところ「1523年に宇都宮氏と皆川氏が戦った」とあって、誰それ? と。
後世にとっては歴史上埋もれた出来事であっても地名として残り続けるのは面白い。
関が原はあくまで関ヶ原であって「合戦場」と呼び改めることはなかったですからね。


国道4号線に乗ってからはひたすらまっすぐで
途中何度か信号待ちで止まった外は順調に進んだ。
武蔵野線の線路を超え、東京外環道を超え、環七に乗ってからはぐるっと世田谷まで。
足立区、北区、荒川区、豊島区、板橋区、中野区、杉並区、渋谷区、世田谷区…
西武新宿線、中央線、京王線、どんどんディープ東京へ。
栃木市から小山市にかけてナビに従って右に左に進んでいた頃は
いったい帰り着くのだろうかと不安だったけど、なんとかなるものですね。
環七は渋滞とならず、246に入ってからもスイスイと。
当初予定していた20時には間に合わず30分延長したけど、
20時半には帰って来ることができた。
下を通っても4時間半ぐらいか。
ずっと乗っていた僕らも疲れたが、一人で運転し続けた妻はもっと疲れた。
昼食べたのが遅かったので夜は食べず。


遊び疲れて皆、早々とダウン。
買ってきた陶器は沸騰したお湯につけて冷やすといい、水漏れしなくなる
と義父が言うので妻がそうしてみた。
陶器市の中だと埋もれていたけど、
それぞれが買ってきた湯のみや皿を家に帰ってから見てみると
なかなか味わい深いものだった。