すずらん通り、萬羽軒、ラタン

最近何かと縁のあるフリーペーパー
「おさんぽ神保町」が主催する神保町の街歩きイベントに参加してきた。
http://osanpo-jimbo.com/


何年も前からタカシマヤ友の会メンバー向けの講座として定期的に開催している。
最近は神保町コンシェルジュとして活動できる人も増えてきた。


この日は11時過ぎに集まってすずらん通りを歩いて、
「萬羽軒」、学士会館の「ラタン」というコース。


「おさんぽ神保町」が10周年ということで10年前のすずらん通りと比較する。
80軒のうち35軒が変わったとのこと。
東西の通りの西側は割と老舗が残っているが、東側は見る影もなくなってしまった。
西側から歩きながら、なくなってしまった店をいくつか挙げていく。
まずは入り口にあった「セブンヘアー」
「冷やし頭シャンプー」「耳とうがらし」「ムンクの叫び」など独特なメニューが多かった。
「Don't Worry Be Happy」という大きな看板が印象的だった。
今はすぐ近くに移転している。


次、「おさんぽ神保町」が立ち上がった頃にお世話になった「書肆アクセス
地方図書専門のコーナーは「東京堂書店」に引き継がれた。
その「東京堂書店」も数年前にガラッと新しく改装されている。
ちらっと聞いた話では経営者の一族を遡ると
金色夜叉』のお宮の嫁いだ大富豪のモデルになった方なのだとか。
天婦羅屋「はちまき」の前に来たらちょうど店主の方が出てきて、
だったらと店の秘蔵写真を出してくれた。
東京作家クラブでの会合。昭和27年。
江戸川乱歩、海音寺五郎らが真ん中に写っている。
通りの終点はかつて「書店ブックマート」があったが、
残念ながら昨年閉店して「ABCマート」になってしまった。


横道に入って「萬羽軒」へ。
http://jimbou.info/town/ab/ab0152.html
書と硯の店。毎日のように前を通っていたけど、
自分には関係のないものとこれまで素通りだった。
まさか中に入る日が来るとは思わなかった。
店主の萬羽さんは40年前から神保町で仕事をしているという。
今の店を開いたのは10数年前。
その頃三省堂書店のビルは赤煉瓦でつくられていた。


「古本屋じゃないとしてもこの通りに店を出すためには
神保町の古書店組合に入らなきゃいけなくてね。
これがまた大変で、組合の2人の長老と面談、班長からも指導を受けて、
保証人は親戚以外で探さないといけない。
かなりの手間だったけど一度入ると皆親切にあれこれと教えてくれましたよ。
今に至るまで強い結びつきでお互い助け合っています。
バブルで地上げの時期にも土地を売った店は一軒もなかったぐらいで」


古書店の町として神保町は昔から
変わってるけれどもものすごい人というのが大勢いたもんです。
その中でも波田野さんという方は相当な本の虫で
東大の先生方も教えを乞いに小さな書店の足の踏み場もない2階に来てました。
私? 元々は新潟でね。
神保町の古本屋の半分はルーツが新潟出身。
大きいとこだと一誠堂さんなんかがそうですよ。
日本海側の寒くて雪の多く降るところから来た人じゃないと
こんな地味な座ってるだけの仕事務まらないんだろうね」


書は良寛が専門だという。
貴重な書を何本も見せて頂いた。
漢詩や書簡や句集の表紙。どれも書体が違う。
繊細な柔らかいものもあれば、実用本位の固いものもあって
自由自在に使い分けていた。
空海以来の書の名人。恥ずかしながら、初めてちゃんと見ることができた。


良寛は真贋が難しくてね。
書き上げた書に良寛は印を押さなかったし、
良寛と名前を書くときもひとつひとつ違っていました。
だから何をもって本物とするかという手本がない。
逆に言うと全くそっくりな良寛の署名があったら、どちらかが偽物です。
そんなわけで『なんでも鑑定団』では良寛の書は一切扱わないことになっています」


鎌倉時代天皇が書いた書を最後に見せてもらった。
昨日書いたかのように瑞々しい。
皇族が利用するともなると当時の最高級品。
中国から渡ってきて、中国でも職人が何重年もかけて作った硯や筆。
だから全く古びない。江戸時代の良寛の書の方がよほど古びている。


その中国の人たちが店を訪れることが最近は増えている。
日本の書家・作家の作品には目をくれず、
中国人のつくったものだけを高値で買っていく。


向かいの「ビブリオ」を少し訪れた後に
萬羽さんと共に学士会館の「ラタン」へ。
僕はそれまで知らなかったけど、玄関外のエスカレーターは日本一スピードが遅いんだとかで。
天皇陛下が利用することが時々あって、手を振りやすくするためにと。
席に付いて、皇族の話が続く。
「美智子妃殿下は普通の人になったら神保町で古本を立ち読みしたいと言っていましたよ」


何かの弾みで松岡正剛の名前が出る。
『外は、良寛』という本を書いていて、千夜千冊の1000夜目も良寛だった。
僕と妻が松岡正剛の学校に関わっていると言うと、フフンと笑った。
なーんだ、という感じで。
店にも一度来たことがあるし、そのことは松岡正剛のブログにも書かれている。
「あの方にあんたはバカだと言ってやったのは私ぐらいのもんだ」と。
痛快このうえなかった。
ほんと、萬羽さんの話はここに書けないことも含めて、何を聞いても面白かった。


「ラタン」のコースも素晴らしかった。
「この時期の、乾燥した時期のフランスパンがよくてね。
これまでいろんな席に座ったけど、冬ならば南側の席が一番です。
あの壁にかけられたポール・シニャックの絵に当たる光が時間と共に少しずつ変わっていく。
それを見ているのがとてもいい」
相当な通人だった。神保町の底知れぬ魅力を一心に体現されている方でもあった。


良寛万葉集の中から選んで書にした『あきのゝ』にはふたつの蔵本があって、
どちらが贋作なのかこれまではっきりしなかった。
それを萬羽さんが丹念な調査から解き明かした『あきのの帖』これは
良寛研究史を書き換える画期的な研究なのだという。