情報と編集と表現

最近話題の動画を見てみた。
「In Japan - 2015」
https://vimeo.com/160301271


外国の若者たちが日本を旅行したときに撮りためた映像を編集したもの。
悔しいぐらいに編集がうまく、スタイリッシュ。
ああ、こんなふうに人と人、モノとコトをつなぐのかと。
日常的な日本であり、同時に代表的な日本でもあるというバランス感覚の妙。
それはつまり、距離感がいい。
外側から客観的に捉えたからということでもあるが、
秘密は滞在時間3週間という時間の長さにあると思う。
それ以上短いと表面的になるし、長くなると心の中に日本がもたれかかってくる。


僕が、僕らが、自分たちで撮影して編集してもこうはならないだろう。
余計なしがらみばかりで選ぶ場面が相当偏ってしまう。
しかもそこに「意味」を与えようとして1カットがやたら長くなる。
それ自体が等価に情報量の多いものとしてどこにでもつなげられるのだ、
という感覚に立てない。
浅草なら浅草だけで完結させてしまおうとする。
結果、トータルとして何が言いたいのかわからなくなってくる。
伝えたいのは客観的な日本なのか、主観的な日本なのか。
ごっちゃになって整理ついていなかったり、
客観に寄り過ぎて平板になるか、主観に寄り過ぎて重くなるか。


どうしたらそこから自由になれるのだろう?
この情報とこの情報をつなぐのがセオリーだし、つながないのがセオリーだ、
というパターンを多く知ること自体はよい。
しかしそこから一歩も出ないで楽しようとしてはいけない。
全く新しいパターンを自ら生み出せる、というところまでいかないと
パターンというものを自在に使えているとは言えない。
それはスタイルや文体と言い換えてもいい。


余計なしがらみがなく、表現は表現だし、情報は情報と客観的に捉えるということ。
簡単なようでいてなかなかできないものだ。