学生時代

あれはもう二十年も前のことだ。
僕は19か、20になる頃。
今の若者には考えられないだろうけど
スマホどころかそもそも携帯電話がようやく世の中に出回り始めてて
田舎から出てきた大学生には到底もてそうにないものだった。
ポケベルがもてはやされたたった数年の間。
それでも男子学生の半分以上が使っていなかったように思う。
主な連絡手段は誰かに取り次いでもらう家の、あるいは寮の電話。
駅の伝言板にチョークでメッセージを残した。


バイトとサークルに明け暮れる普通の学生だった。
そこそこ授業に出て、単位はだいたいBでいくつかAというような。
夏は誰かしらが持っていた車で皆して海に出かけ、冬はスキー。
ビール一杯190円の安居酒屋かたまり場の部屋に集まって週に二度ぐらい飲む。
公然とつきあって長続きする二人もいれば、
誰にも知られないようにしてたのが破局を迎えて、
いつのまにかどちらかもいなくなって、後から真相を聞いたり。
地方の進学校から来ていた僕らは
20歳の誕生日までに経験できるかどうかがかなり切実な問題だった。


あるとき、2年の夏だったと思う、花火を見に行くことになった。
河川敷の大きな会場で今なら場所を確保するのはかなり難しい。
あの頃はまだその日の午前中にビニールシートを広げて
交代で座っていればなんとかなった。
始まって、むやみやたらにはしゃいだ。
誰が一番大きな団扇を持ってきたかを競った。
女の子たちは浴衣を着て、なんだか恥ずかしそうにしていた。
缶ビールで乾杯してポテトチップをつまんだ。
壮大に広がるナイアガラを口を開けてポカンと眺めながら
「たまやってどういう意味?」なんて呟いていた。


終わってぞろぞろと帰りだす。大勢が駅に向かう。
人の群れ、人の波。曲がり角や歩道橋でのそのそと分岐する。
僕は何とはなしに最後尾にくっついて歩いていた。
誰かに話しかけられたように感じて立ち止まり、
我に返るとサークルの他の連中を見失っていた。
え? あれ? キョロキョロしていると
後から来た急いでいる人がぶつかってきた。仕方なく歩き出す。
困ったなあ、と思っていたらもう一度話しかけられて、
今度ははっきりと声が聞こえた。サークルの女の子だった。


あ、いたんだ。
「はぐれちゃったね」
なんだか具合悪そうにしていたので、狭い路地に入った。
物陰の何かにもたれると目の前の通りを絶え間なく人々が通りすぎていく。
小さい子どもをつれた夫婦、同じような学生グループ、カップル。
「気分は?」と聞くと、「…大丈夫」と囁く。そしてかすかに笑う。
そういえば僕はこの子のことをよく知らない。
皆あだ名で呼び合っていて、本名があやふやな人が何人かいる。
彼女は確か他の大学から参加していて、校舎で会ったことはなかった。
そういえばいつから来てただろう? よく思い出せない。
誰ともしゃべらず、一人ぽつんとしていた場面ばかりが思い浮かぶ。
顔は悪くない。どちらかといえばタイプだ。
だけど知らないことが多い。何が好きか。誰とつきあっているか。


「今日は楽しかったね」と彼女は言う。
僕も「楽しかった」と応える。
だけどそれ以上話が続かない。
無言で見つめ合って、しばらくして僕は視線をそらした。
こんなとき、どうしたらいいんだろう?
何を言ったらいいんだろう?
ドキドキと心臓が鳴った。
ゆっくり呼吸を繰り返すと、彼女の甘い香りがほんの少しだけした。
離れたところから駅へと向かう人たちの賑やかな声が聞こえた。
「家、どの駅だっけ?」
「ねえ、あれ」
指差した方に顔を向けると東京のぼんやりとした星空が広がっているだけ。
え?
向き直ると彼女はいなくなっていた。


あれ? どうしたんだろう?
路地の向こう側は別の通りにつながっている。
彼女はどうやってそこまで行けたんだろう? 音もなく。
取り残されてしばらく探した。
目の前の通りと背後の通りと何度も路地を行ったりきたりした。
「……さん?」とあだ名でも呼びかけた。


人通りも少なくなった頃、僕は一人で電車を乗り継いで帰った。
座ることはできなくて、そわそわと窓の外の町並みを眺めて過ごした。
アパートの部屋に辿り着いても落ちつかない。
テレビをつける。消してコンビニに行く。
スピリッツとヤンマガをパラパラと立ち読みした後、
缶ビールを買い込んで部屋で一人飲み始めた。
ふと気付いてこの前もらったサークルの名簿を開く。
時々、新歓の時期にコンパに来ただけで名前しか載っていない子がいる。
彼女はそもそも名前すらなかった。
そんなはずはない。何度も集まりや飲み会に来ていたのに。
缶ビールを三本飲んでいるうちにいつのまにか眠っていた。


次の日曜は昼からバイト。
ホールに立って注文を聞き、皿を運び、片付ける。
ずっと上の空で彼女のことばかり考えていた。何度か間違えてチーフに怒られた。
僕は彼女のことが気になって仕方がなかった。
月曜、珍しく朝早くから学校に出かけてサークルの知ってるやつに会わないか探した。
土曜の花火大会のことを話した後でそれとなく彼女のことに触れると
そいつは「誰それ?」と。「そういう人いたっけ?」
他にも何人か聞いてみた。女の子にも聞いた。皆、知らないという。怪訝な顔をされた。
それから先、サークルの集まりには全て顔を出して彼女が来ていないか期待した。
…もちろん、出会うことはなかった。


何年か彼女のことばかり考えて過ごした。
もう一度会うことができたらあのときのことを謝ってこんなことを話そう。
つきあうことができたらこんなことをしよう、あの場所に行こう。
大学4年間で恋人ができることはなく
周りの皆からはそれでいいのかといつも冷やかされたけど
彼女のことは誰にも打ち明けることができなかった。


しかしそれも社会に出ると変わっていく。
合コンで出会った人と短い間交際した後、
同期の子と割と長く続いて30になる前に結婚した。
子どもが二人できて中古のマンションも買い、35年のローンも組んだ。


今でも彼女のことを思い出す。
いったいなんだったのだろう?
誰が何を伝えたかったのだろう?
今出会ったら、僕はどうなってしまうだろう?
彼女もまた年相応になったか。
それともあのときのままなのか。


妻は時々、「なにをぼんやりしてるの?」と聞く。
僕は決まって「なんでもないよ」と答える。そして言う。
「学生時代のことを、思い出していたんだ」