『家族ゲーム』revisited

夕食後、『家族ゲーム』を見た。
このところ伊丹十三が気になっている妻が見てみたいというので、
TSUTAYA DISACAS で次に届くようにした。
昭和の東京の下町。すぐ近くに工場地帯。まだあちこちに雑草の生えた空き地がある。
団地に住む四人家族。兄は出来がいいが、弟はテンでダメということで
松田優作扮する家庭教師が呼ばれることになる。
先生はいつも渡し船に乗って団地まで来て、植物図鑑を小脇に抱えている。
三流大学を留年していて、ヒモのような暮らしをしている。
四人家族の食卓は横に長く、皆一列になって食べる。
互いに囲んだりしない。視線を合わせない。
パパが目玉焼きの黄身をチューチューするのが好きだということをママは何十年と気付かなかった。
云云かんぬん。


学生時代にレンタルビデオから借りて見ている。
映画にかぶれていた頃、名画ベスト100みたいなガイドブックを読んで、
真っ先に借りたのだがこれだと思う。
寮の部屋でビデオデッキにテープを入れる。
やたらとゾワゾワ、ゾクゾクした。確かにこれはすごい映画だ。
内容はともかく、とにかくすごいと。


そして20数年後。
こんな映画だったか。いや、こんな映画だった。
記憶の中で勝手に補完されて別な映画になるということもなく、
まあ確かにこうだったなと。


ある意味何が何だか全く分からないし、ある意味なんともわかりやすい。
この映画は感覚でしかないし、
80年代前半のあの空気感だけで成り立ったものなのだということ。
だから古びてしまってもいいはずなのに、それがない。
ひとつには正に「80年代前半のあの空気間」の貴重な記録であるということ。
ひとつには特定の時代を突き詰めるとそれが普遍的な意味を持つようになるということ。


生きるとは何か、家族とは何か、を語っているようでいて寸止めで肩透かしのまま、
生きるとは何かを語るとはどういうことか、
家族とは何かを語るとはどういうことか、
というメタ的な構造ゆえに古びないということもあるだろう。
しかしこれら森田芳光監督が確信犯的になしえたのではなく、
あの当時商業映画を撮ったり、自分の撮りたいものを撮ったりとしていく中で
繰り返していた実験の結果、偶発的に生まれたものなのだと思う。
早い話が奇跡。だから古びない、というのもある。


松田優作扮する家庭教師は何なのか。
崩壊寸前のようでいて案外しぶとい平凡な家庭をただすために遣わされた
聖人、イエス・キリストなのか。
だとしたら高校合格後の食事をぶち壊した後、渡し舟に乗って永遠に去っていく、
あの時のあの表情は何なのか。


ラストシーンも結局よくわからないまま。
なんでヘリコプターが上空を飛びまわっているのか。
なんでこのシーンはヘリコプターが飛んでなければいけないのか。
そしてママは窓は開けるが外には出ない。
ただその音だけがずっと続いている。
劇中何度か、この頃社会問題になっていたバット殺人が言及される。
もしかしたらこの家族もボタンを掛け違っていくうちにそういう局面を迎えた可能性があった、
その報道陣のヘリコプターなのだ。
今回はそんな風に解釈してみた。
だけどまあそこに正解はないのであって。
というか、そもそも問いそのものがそこにはない。


つまるところ、問いも答えも存在しないが、途中の過程の寓意・暗示だけがふんだんにある。
そんな映画なのだと思う。深読みしたくなって何度も見る。ただ、それだけ。
だけどそういう映画が作れるかというと計算ずくではなかなか難しい。
だから稀有な映画なのだということ。