叔父の訃報

昨日の朝、母から電話があって叔父が亡くなったと。
母の兄弟の長男で、父に代わる人物を誰か一人挙げるならばこの叔父となる。
しかし僕はお金をたかってばかりの不詳の甥っ子だった。
小さい頃はおもちゃや本をねだり、
大学生になってからも、いや、会社員になってからも
帰省して訪れるたびにかなりの額の小遣いやお年玉をもらっていた。
そんな自分が恥ずかしくなって、ここ10年全く会いに行かなかった。
 
覚えているのは一度だけ、2年前になるか、
妻を伴ってお盆に帰省した時に墓参りのため、
レンタカーを借りて母と3人で家を訪れたのが最後だった。
それも10分もいなかったと思う。
年老いた叔父は最後にふらっと顔を出した。
叔父は何も言わず、言葉を交わさなかったと思う。
それが最後になってしまった。
 
今日の朝再度母から電話があって葬儀の日程を聞く。
青森に帰りたいが、仕事やあれこれで今月は帰ることができない。
それもまた不詳の甥っ子ということになる。
あれだけお金をもらったというのに、何も返せないままに終わってしまった。
 
僕らが行くというので買っていた七面鳥を絞めてくれたこと。
雪道を叔父の運転する車に乗っていたら滑って一回転してくれたこと。
小さいとき、土曜の午後はともに新町の耳鼻科に通っていたこと、
日によってはそのまま家まで泊まりに行ったり、
次の日車で浅虫の水族館に連れて行ってくれたこと。
学生時代、夏になると決まって池の掃除をしたこと。
ある年の正月、パソコンが欲しいと言われて別の叔父の家に泊まりがてら買いに行って
その次の日に一式箱を持っていったこと。
お盆や正月で仕事が休みの日は昼からずっと焼酎を飲んでいて、
大五郎とか SUN とか安くて大きなボトルを近くの店に買いに行かされたこと。
(その店も後に夜逃げした)
いろんなことを思い出した。
 
津軽半島の先、小さな集落。
(向こうでは部落と呼ぶ。関西でもつような意味合いはない)
周りを山と田んぼに囲まれ、
鉄道は今も2時間に1本か。僕が小さい頃はもう少し本数が多かったように思う。
叔父は頭が良く、本当は東京に出て大学に通いたかった。
しかし長男ということで祖父に反対され地元の高校まで。
農業の傍ら、いくつか資格を取ってそれを収入とした。
 
いつか夏に青森に帰ることがあったらそのとき仏壇に手を合わせ、
墓参りすることになるだろうか。
それはいつになるのか。
好きだった焼酎のボトルを買って、供える。