僕の小さい頃、学校に来ないのはヤンキーだけだった。
教室に40人以上いて、小学校・中学校では不登校の生徒は不良以外皆無だった。
1980年代の青森だからかもしれないけど。
高校になって初めて、(校則や集団生活や学習カリキュラムといった様々な点で)
学校に馴染めずに不登校という生徒が学年に一人二人いたように思う。
学校とは「行く」ものであった。
どんなに行きたくなくても、
病気以外に「行かない」という選択肢はありえなかった。
そう思っていたのは僕だけではないと思う。
そういう時代だった。
(昔はよかったと言いたいのではないし、今の人は……、と言いたいのでもない)
「不登校」という選択肢ができたから、いや、
「不登校」という名前が付けられて概念化されたから、
この社会にその数がぐっと増えたのではないかと錯覚する。
高速道路を逆走するなどのお年寄りの運転事故が
ここに来て急に増えたかのようにニュースで感じるのと同じ。
「認知されたから増えた」というような。
実際には逆で、これまで少しずつ増えてきて
社会的要因でそれが急カーブになる局面があって、
一定の閾値を超えたから表面化した、ということなんだろうけど。
……それはさておき。
午前3時にLINEでメッセージを送って、即返信しないと仲間外れになるという。
自分だったらどうか。
そもそも母子家庭でスマホなんてもてなかったかもしれない。
そんなときどうなるのだろう。そもそも相手にされないのか。
引っ込み思案で家の中で本ばかり読んでいた僕は、
一人きり空想と妄想の中に閉じこもっていた僕は、
今だったら学校に行かなくなっていたかもな……
そこからどういう出口を見いだせたか、と思うとゾッとする。
青森の片田舎で引きこもっていたか。
何かのはずみでボタンを掛け違えていたら
僕もまた何らかの事件を引き起こしていたかもしれない。
妄想に窒息して、現実との区別がつかなくなって。
現実と折り合いがつかなくて空想が妄想になる。
そこからどう抜け出すか。
それが不登校や引きこもりに対する一つの解決策に思うんだけどどうなんだろう。
そんな簡単なことじゃないか……