この土日、小豆島を訪れた。
自由律俳句で有名な尾崎放哉が粗末な庵に住んで生涯の最後を過ごした地であり、
墓参りをして記念館を訪れた。
句集の文庫を買い求め、ホテルで過ごす夜、帰りの飛行機の中で読んだ。
「咳をしても一人」
「墓のうらに廻る」
「入れものが無い両手で受ける」
これぐらい書けそうだと最初は思うが、少し考え始めると「いや、無理だ」と気付く。
無限とか虚空とかそういう抽象的な言葉は出てこない。
身の周りのことを書いたようでいて正岡子規の言う写生ではなく、
まして「人間だものとか」「仲良きことは美しきかな」というものでもない。
切り詰めた言葉の中に一人一人の人生の瞬間を切り取った、その広がりがある。
「爪切つたゆびが十本ある」
「月夜のかるい荷物だ」
「肉がやせてくる太い骨である」
「あなた」や「わたし」が登場することはない。
「婆さん」や「漁師」といった人物が目の前に現れるだけ。
事物と出来事。あるいは自らの行為。
自分が何を思い、何を感じたか、ということは一切触れない。
なのにその背後に、一人きり無念の中にいる尾崎放哉の姿がある。
「来る船来る船に一つの島」
「一本のからかさを貸してしまった」
「動物園の雪の門があけてある」
特徴が少し分かってくると、僭越ながら「いや、作れるんじゃないか」とまた思い出す。
帰り道、妻とこんな感じじゃないかと交わし合う。
「猫砂を買う」はどうなる?
「月が出てゐる猫砂を買う」
「欠けた月が出てゐる猫砂を買う」
「欠けた月がある猫砂を買う」
「猫砂を買う欠けた月が出る」
こんなふうに足したり引いたり並べ替えたりしていくうちに形になっていくのだろう。
あるいは、言葉がすっと出てきてそこで終わりなのか。
「犬よちぎれる程尾をふつてくれる」
「をそい月が町からしめだされてゐる」
「口あけぬ蜆死んでゐる」
土曜の夕方、見晴らしのいいところで瀬戸内海を眺めようということになって、
紅葉のトンネルを抜けて駐車場に車を停める。展望台に立った。
「夕暮れの斜めに差し込む光が山いっぱいを照らす。
その日最後の光を浴びて島は輝いていた」
と僕はこの日の日記に書いた。
同じ風景を見たのか、尾崎放哉はこんな句を読んでいた。
「山は海の夕陽をうけてかくすところ無し」
飛行機の中で読んだとき、僕は、まだまだ全然だなと思い知らされた。