中学や高校の国語の教科書で取り上げられていた作品のことを時々思い出す。
詩や俳句、短歌もあった。
その多くは忘れてしまったが、ひとつだけ今も忘れられないものがある。
調べたら塚本邦雄という方で、前衛短歌を切り拓いたのだという。
初出は1958年の句集となる。
暑いし、ペンギンだってこんなごちゃごちゃした日本を離れて涼しいところに行きたいよね。
案外、それだけのことかもしれない。
様々な解釈が可能で、寓意に満ちていて、100人いれば100人違うことを考える。
名句とはそういうものなのだと思う。
この解釈の揺らぎはどこから生まれるのだろう?
たった31文字なのに「皇帝ペンギン」という単語が2回も出てくるのは、
そこで字数を使ってしまうのはもったいないのではないか?
情報量が乏しくなるのでは?
一見そういうことを考える。でも実際は逆で、
「皇帝ペンギン」という日常生活の片隅にはあっても普段使うことのない言葉、
よほどのペンギン好きでもない限り
水族館に出かけるか、ニュースで異国の出来事を見聞きするといった
非日常に触れないと出会わない言葉を繰り返す、
その反復とわずかな差異の隙間から、イメージが広がっていく。
この両者の関係性にも微妙なものがある。
皇帝とはいえ、ペンギン。鳥類。
飼育係りは人間。人間だからペンギンより偉いのか?
飼育係りって主従関係であればどちらが上なんだ? ペンギンが上?
そもそも、様々な職業が世の中にある中で飼育係りはさほど地位の高いものではない。
皇帝ペンギンという偉そうな名前も人間が勝手につけたものだ。
この微妙な関係性もまた、読み手のイメージを何層にも塗り重ねていく。
どちらにせよ、皇帝ペンギンは水族館の水槽や柵で囲まれた中から外に出ることができない。
飼育係りも社会の柵の中から出ることはできない。
だから冒頭の「日本脱出したし」となる。
1958年。戦後というのも遠くなりつつあり、高度経済成長へ。
一方で安保闘争も近づきつつある。
がむしゃらに復興に向けて突き進んで、それが一息ついて、国民意識というものが生まれた頃。
社会というものに自分たちは生きている、
日本社会というものが作り返されたものが定着、
国民それぞれが目に見えない新しい階層や階級があると気づく、
そんな時代だと僕は捉えている。
この時代ならではの息苦しさがあって、目の前の壁があって、
誰もが自らの日々の暮らしには向こう側があることを触知し、そこに突破したいと願う。
そういった背景がこの短歌にはあるのだと思う。
ネットでちょっと調べてみたら、主流とされる解釈は
さて、どうなんでしょうね。
皇帝、ってところから来てるんだろうけど。
皆がいなくなった、空っぽになった日本という国を思い浮かべると
それはそれで面白いけど。