「dogville」

会社で周りの人たちがバタバタと体調を崩して割と頻繁に休んでいる。
僕は年末からずっと健康そのもの。
なんかずるいなあと思って僕も休みを取ることにする。
映画を見に行く。
渋谷で「Making of dogville」「dogville」恵比寿で「グッバイ、レーニン!
この3本を見るという計画を立てる。


「dogville」はもう前から見たくて見たくて仕方がなかった。
奇跡の海」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の
ラース・フォン・トリアーの最新作ってだけでワクワクするし、
工場の床にチョークで家とか通りとか線を引いただけの抽象的なセットで
3時間の物語を語ってしまうとか
今回の生贄は二コール・キッドマンであるとか
(トリアー監督は必ず主演女優を精神が崩壊する寸前まで追い詰める)
昨年のカンヌでは話題となり賛否両論となったものの結果として無冠で終わったとか
話題には事欠かない。


モーニングショーでまずはメイキングの方を見る。
素顔のラース・フォン・トリアーはいたって普通っぽい人で
常識もきちんとありそうだった。
もっと目がいってるようなやばい人なのじゃないかと勝手に想像していたんだけど、
そんなことはなかった。
役者に対して演技の説明をしている様子を見てると特におかしなことはしてなさそう。
なのにメイキングが進むにつれてセットの中は異様にピリピリとした緊張に包まれる。
これって映画の撮影ってのがそもそもそういう性質のものなのだとも言えるんだけど、
トリアー監督特有の何かってのもあるんだろうな。
知らず知らずのうちにでかいものを作り上げ、それとともに災厄ももたらすという人。


つまるところ映画監督のすることってのは
頭の中にものすごく大きくて緻密な何か(イメージとかヴィジョンとか物語とか)を構築して、
それを周りの人たちに脚本を書くなり具体的な演技指導なり
いろんな手段でもって伝えていくことを繰り返すだけと言ってもいいのであるが、
その頭の中での構築ってのがトリアー監督の場合とんでもないことになってるんだろうな。
わけのわからなさ加減、凡人には及びも付かない別次元の内包さ加減からすれば
この人はもう世界の最先端だろう。
並ぶのはエミール・クストリッツァぐらいか。
この2人とも考えに考え抜いた試行錯誤の結果が作品になってるのではなくて
本能の赴くままにパワーと時間を注ぎ込んだら自然とああなってしまうという雰囲気も似ている。
もちろん努力もたくさんしてるんだろうけど、
やはり凡人には理解不能なところでなんだろうな。
天才としか言いようがない。

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で、見てみた結果。


一番気になってた抽象的なセットってのはあくまで仕掛けの1つに過ぎず、
見てるとそんなことどうでもよくなった。


2つのことが言える。
スクリーンに役者Aというのが映っていて
演技している(声や表情で何かを語っている)のであるならば
人はそこを主として見つめるのであって、
さらに役者B(C・D・E・・・)もいるのならば
その相互左右というか間に流れる磁力に惹き付けられるのであって、
目の前に広がっている映像のあらゆる点や線を
全て等しいものとして捉えられるほど頭がよくはない。処理能力は高くない。
背景に何もないってことはストーリーを捉える上において何の障壁にもならない。


もう1つ。
映画館に座っていて目の前にはスクリーンがあって映写機から映像が映し出されている。
「今あなたが見ているのは映画です」
そんな状況になると人はどんな約束事も当たり前のように受け入れるのだということ。
チョークの白い線しかなくても役者がそこでドアを開けたり閉じたりする動作をすると
そこにドアがあるのだなと思考を停止ないしは省略してしまう。
記号論的な物事の捉え方の典型。
ある種の状況が特異な方向性でもって言語化され認識されるように
条件付けられるような環境に身を置くならば、
人はあっさりとその環境に身をゆだねて思考という作業を行うようになるのだということ。
人によってはそこに見えないドアや壁を見出すだろうし、
人によってはそういうものは不要なまま、ただただ従順に約束事へと身を委ねるだろう。


トリアー監督がこの「dogville」という村の舞台としての奇妙さを際立たせたくて
あるいは役者同士のやり取りの中から勝手に見る人が心の中にその風景を作り上げてほしくて
こういう試みを行ったのならば成功と言えるだろう。
逆に考えるなら、背景というノイズを排除することによって
役者たちの言葉や表情・身振り以外の要素以外には情報が入ってこないようにすることで
役者の動きだけを見つめさせるという特殊な純度の上げ方の試みなのかもしれない。


トリアー監督は映画にとって最小限な、必要不可欠な要素は何かという問いに対して
1つの答えを出したわけだ。
優れた役者がカメラの前に立っているのならば、それだけで映画というものが成立してしまう。
映画とは一皮向けば不可解で不安定なものなのだ、そういう要素を内包しているものなのだ、
そんな見も蓋もなくて残酷な答えを見る者に突きつける。


でもこんな芸当ができるのはあくまでトリアー監督だけであって、
素人が真似したら絶対痛い目にあいそうだ。

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話は例によってクライマックスの破綻に向かって突き進む。


その賛否両論を論じてても仕方なさそう。


少なくとも僕は結末の予想を思いっきり覆された。
だけど鮮やかなどんでん返しを期待してトリアー作品を見てるわけではないし、
これはあくまでおまけのようなもの。
ショッキングなものを観客に見せたいという思いがトリアー監督の中にあって、
見事僕はそのショッキングさを体感した、それだけのこと。


これはモンスターのような得体の知れない映画であって、
筋書は構成要素の小さな一部分でしかない。
評価の仕様がない。
ダンサー・イン・ザ・ダーク」のときはまだ、現世の物語に拘泥する部分があった。
だから見やすかった。評価を得やすかった。
「dogville」はもうわけがわかんなさすぎて誰にも何も言えない。
もしかしたら監督自身からも的確な表現は出てこないかもしれない。
とにかく絶賛するか、無視するか、わからなかったと正直に言うか、
「二コール・キッドマンがよく耐えた」というところでお茶を濁すか、
そういう反応しかできないだろう。
カンヌ無冠もよくわかる。面白い面白くないという次元では計測できないのだ。


ああいうモラルもへったくれもない終わり方をしておきながら
あの描き方はいかがなものか、
物語とその描き方ってのは案外どうでもいいものなのではないか。
そんなふうに捉えてしまう人も出てくるはず。

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飛行機恐怖症で大西洋を渡ったことのない監督が
ヨーロッパの一地方(デンマーク)にて様々なジャンルの芸術から得た情報から
組み上げたジャンクな像としての「アメリカ」を
映画にて描くという倒錯的な試みがこういう結果となるのか!?
というのは素直に驚き。
次回作も架空のアメリカを題材として選ぶのだという。

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映画は渋谷シネマライズで見た。


スペイン坂ではコマーシャルの撮影が行われていて、
私服であれ制服であれ女子高生っぽいエキストラが大勢待機していた。
大きなキャンバスに空色のペンキをぶちまけるというシーンを撮ることになっていたようだ。