三浦半島ドライブ②

さっきハイキングロードって書かれてるのをそういえば見たと誰かが言い出し、
近くを歩き回って時間をつぶすことにする。
どこがどうハイキングロードなのかはわからず、海水浴場脇の岩場を歩き始める。
・・・大きいのから小さいのまで至るところにフナムシ。わさわさと。うじゃうじゃと。
フナムシパラダイス」と人知れず名前を付けられる。
サンダルは僕だけで、後はみんなスニーカー。
地面は砂というよりは砂利のようで、貝殻の破片も混じり合って痛いことこの上ない。
歩いてられない。少し歩いては立ち止まってサンダルを脱ぎ、
サンダルと足の裏に挟まった砂利を掻き出し、
また少し歩いては踵を持ち上げてブラブラさせて砂利を落とそうとする。
岩場には釣りをしている人たちが何人かいた。
シュノーケルをくわえて水面に浮かんでいる人たちもあちこちで見かけた。
何が採れるのだろう、何が釣れるのだろう。
岩の斜面にはユリのようなオレンジ色の熱帯っぽい植物が咲いている。
太い鉄製のパイプが崖から下りてきていて、海中に続いている。
そういえば温泉は「海洋深層水」って書いてあったなあ。
汲み上げているのか、それとも排水を流しているのか。
パイプの裂け目を覗き込んだ後輩は「海の方に流れている」と言うのであるが・・・。


階段を上って降りていくと同じような岩場へ。
階段のてっぺんで足を止めて周りの景色を眺める。
海はなかなかきれいだった。
降りた先の岩場にはまた別の海水浴場と海の家があって、
ああこの辺って小さな海水浴場が岩で遮られていくつか連なってるのだなあと知る。
デコボコした岩の上を歩く。潮溜まりの中を小さな魚が泳いでいる。
蟹がのっそり歩いているのを見つける。


海の家脇の小道を登っていくとマリンパークに出る。スタート地点に戻ってきたことになる。
9時を過ぎて日差しが強くなってきて、みんな汗ダラダラとなる。
いつの間にか晴れていた。
先ほどフェリー乗り場に下りていったときの木陰の道に入る。
涼しくて、ここでしばらく一休みする。


フェリー乗り場に行く。空が晴れたので今度は予定通り出航するという。
本来の値段ならば片道1300円なのだが、9時の便が欠航で1時間待ってもらったからと
窓口のおばちゃんは2割引で1040円、往復で2080円にしてくれた。
乗り場にはおじいさんがいて、船会社の上下つながった水色の制服を着ている。
船が城ヶ島から到着するまでの間、僕ら相手に昔話を始める。
こういう話。

                                                                                                                    • -

私は昔、大きな船に乗ってたんですね。
タンカーって言うと原油を運ぶもんだけどそういうのともちょっと違って、
ナフサとかケロシンとか。
イタリア製の大きな船に乗ってました。
でもあるときを境に乗るのやめちゃったんですよ。


ああいう原料を運んでると石油だからガスが生まれます。
タンクに入れたままにしてると膨張して破裂してしまうから
時々ガスを外に抜かなくちゃならないです。
そのガスも重いから風が吹いてなかったら
船のあちこちの通路に溜まることになります。
そこのところは家庭のガスと一緒です。
だから危険なのは静電気や鉄がぶつかり合ったときに
火がついてボン!と爆発してしまうことです。


船に乗ってるとなかなか家に帰れません。
私は一番長いときで2年半船の上でした。
あるとき、母が危篤だという知らせを受け取りました。
でもすぐには故郷に戻れません。
船の上だったし、自分の代わりをしてくれる人を見つけて、引継ぎをしなくてはいけないんです。
そのときたまたま、荷主の人が亡くなられて
じゃあこの荷物は誰のものから誰のものとなるのかという手続きがあって
船が停泊することになったんです。鹿児島の港でした。
2週間停まりますということになって時間ができて、
会社の人が代わりの人を見つけてきてくれました。
それで私は母のところに戻ることができたのですが、その次の日に母は亡くなりました。
船の人間なのに、母の死に目に間に合うことができて私はとても幸運でした。


その後船はフィリピンに向けて出航したのですが、
ガス爆発で船が真っ二つになって友達がみんなみんな死んでしまいました。
その日を境に私は船乗りをやめることにしました。


私はそれから陸の上で働き始めたのですが
根が船乗りなもので気が付くと少しずつ少しずつ海に引き寄せられるんです。
それで見つけたのが今のこの船の仕事でした。

                                                                                                                    • -


油壺と城ヶ島の間の僅かばかりの距離を約15分間で走る小さなフェリー。
それを運営する小さな会社。
おじいさんはニコニコ笑いながら
改札係として、到着した船の搭乗口に板を渡す係として日々働いている。
東京から車に乗ってきて今何気なく乗ろうとしていたフェリー。
そこで1人の人間の「人生の行き着いた先」というものに触れる。
不思議なものである。


こんな話もしてくれる。
三崎はマグロで有名だけど、いつの時代も鯨の陰に隠れて主役となることはなかった。
三井や三菱といった商社がヘルシーな食べ物「ツナ」の材料として
大量にアメリカやヨーロッパに運んでいた時期もあったのだが、話題になることもなかった。
戦後、おじいさんが船乗りになった頃の捕鯨船の船乗りは花形職業だった。
第一船が港に戻ってくるとなると大勢の人々が待っていて、船長は花束をもらったものだった。
当時の新卒会社員の平均賃金が月に6千円だったときに船員の年収は80万近かった。
船長ともなるとその4倍はもらっていた。
おじいさんも船乗りとしてたくさんお金をもらっていた。
兄弟全員の家を建ててアパートまで建てたのだという。
だけど船乗りをやめることになったんで、裸一貫一家総出で三浦半島に移り住んできた・・・。


フェリーが油壺に到着する。
乗客は僕ら5人だけ。期せずして貸切。
おじいさんは「岸壁の母じゃなくて絶壁の父が見送りです」と言って笑う。
船が岸を離れる。おじいさんがこちらに向かって手を振ってくれる。
船の中の乗務員は同じようなおじいさんばかり。
もしかしたら僕らよりも数が多かったのだろうか?
3連休の初日、これだけ暑くても5人しか客が乗ってなくて経営は成り立つのだろうか?
そんな余計な心配をしてしまう。
客が僕らだけなのでおじいさんたちも僕らにあれこれ話しかけてくる。


フェリーは油壺を離れ、城ヶ島へ。
青い海を突っ切って白い波飛沫が上がる。
僕は缶ビールを買って飲む。ご満悦。貸切ってのがなんともゼイタク。
遠くには何席もの漁船が。後で聞いたところではイカを釣るのだという。
ヨットやシーカヤックが浮かんでるのも見かける。
ふもとの方が曇っていたので、富士山の頂が空中に浮かんでいるように見えた。


15分ぐらいで城ヶ島に到着。
ここですぐ降りるのではなく、観光船ってこともあって島を一周してから降りることになる。
(帰りに油壺に戻るときも一周してから油壺へ向かうことになる)
ここで何組もの観光客が乗ってきて、残念なことに貸切は終了。
社員旅行っぽい集団やカップルなど。写真を撮ったり甲板の手すりにもたれて海を指差したり。
僕らはアイスクリームを買って食べる。
城ヶ島大橋の下をくぐる。島は1周しても20分ぐらい。とても小さい。
ところどころ観光案内として景勝地の説明を行うテープが流れ、
それが終わると島の民謡に。
先輩は「Kill Bill」のラストに流れる梶芽衣子の「怨み節」に似てないか?と言う。