なぜ殺してはいけないのですか?

昨日、大阪池田小事件の宅間守死刑囚に対して刑が執行されたというニュースを見た。
栃木の誘拐された兄弟のうち、弟の遺体が川で見つかった。兄の行方は依然として不明。
先週の事件としては、愛知で母子4人が殺害され放火されたというのがあった。
岡山では小学3年生の女児が刺されて倒れているのを自宅で発見された。


いつの頃からか、90年代に入ってからなのか、その後半になってからなのか、
一見たいした理由も無く無差別に人が殺害されるような事件が
日常の出来事として定着してしまったように思う。
その一方で例えば
イラクでのテロは激しさを増すばかり、派遣された米軍も既に1000人以上が死亡している。
ロシア南部ベスランの学校占拠事件も記憶に新しい。人質の死亡者は323人。そのうちの半数が子供。


人が人を殺すのはとても簡単なことなのだと思う。
「なぜ殺してはいけないのですか?」
この問いかけに対する明確な回答はない、と誰かが書いていたのを読んだことがある。
強いていえば「常識」のようなものが抑止しているということになる。
ある人に対し強い恨みの気持ちがあったとしても
自分と相手に関係する様々な人々への影響を考え、踏みとどまる。
「むしゃくしゃする、すっげーむかつく」と公言する若者たちも
じゃあ即周りの見知らぬ人に対して暴行を加えるかというと多くの場合そんなことはしない。
潜在的に/顕在的に常識というものがセイフティーネットの役割を果たしている。
ある種の倫理観と言い換えてもいいかもしれない。
生き物としてそもそもそういうことはしない、
社会的にもそのようなことはできない。そんな2段構え。


それが個人的な状況や社会的な状況次第ではいとも簡単に打ち崩されてしまう。
人が人を殺すのに理由がいらなくなる。
言い訳や理論や思考によって生み出される一切のものが、いらなくなる。
均衡が崩れてしまった人にはどうでもよいものはどうでもよいのだろうし、
そこでは他人の命もまたその他多くの物事と一緒でどうでもいいものとなる。
人間というものが生命ではなくて数量や情報という枠組みで捉えられるようになったら、
個々の人間の存在というものが抽象的な概念でしかなくなったら、
そしてある種の思想やイデオロギーがその人を貫く行動原理として強固なものとなるのなら、
テロなんて非常に簡単な行為だ。


僕が誰かを殺してるかもしれないし、僕は誰かに殺されてるかもしれない。
これといって明確な理由も無く。


若い両親が幼児を虐待して時には死に至らせるのも珍しいことではなくなったし、
そういう出来事に象徴されるような社会に不安を持つ人たちは子供を持とうとはしなくなる。


このままどんどんいろんなものが崩れていってそれが当たり前になっていって
僕も君も深く考えもせずその時々の状況を受け入れるようになるのか。


じゃあ何ができるのかといえば実際何もできないわけだし。
1人1人の力は無力なものであって、という以前に、
ただただ日々の出来事に流されてなんとなく生きていくものなのだから。


この傾向からして地球上での紛争地域は減ることは無く増加の一方を辿るのは明らか。
日本国内で日本人同士でテロを行う、
何十年か後にはきっとそういう社会になっているのだと僕は思う。
気がつくとこの国には人がいなくなっている。