人々が寄り集まって娯楽として歌を歌う

昨晩寝ながらツラツラと考え事をしていたら、
ドラえもんの中で、部屋の中に集まっている面々が歌を歌っている場面が
何度か出てきたなあということを思い出した。
「夏は来ぬ〜♪」なんて。
あくまで昔の方の。10巻台ぐらいまでの。


人々が寄り集うとき、「歌を歌う」という行為が普通の娯楽だった時期が確かにあった。
この日本という国には。
昔の日本映画を見てもそういう場面が出てきたように思う。
居間にピアノがあって、家族で歌う。友人たちが集まって歌う。
楽しそうに。ほがらかに。
(ああいうのって実は映画の中だけ?)


みんなで歌を歌うってことがそもそも楽しいことであるわけだし、お金もかからない。
動き回る場所も必要としないし、時間も関係ない。
家の中に限らず、ピクニックに行けば木陰なんかで。


そうだ、おそらく昔の小学校では遠足に行けば
みんなで歌を歌っていたのではないかと推測されるが、
たぶん今の小学校ではそんなことしてないだろう。
もしかしたら、木陰で1人歌う女の子ってのも絶滅したのかもしれない。
もちろん歌うのは最新のヒットチャートのガチャガチャした曲ではなくて、
中学校の音楽の時間に習うような、記憶の底にひっかかる、素直にメロディーのいい曲。


こういう、娯楽として「その辺で」歌を歌う、
みんなで歌うという行為がこの国からは失われてしまった。
歌は歌われる。盛んに。
でもそれはあくまでカラオケボックスで。場所を限定しないとしっくりこなくなってしまった。
これって日本人固有の「恥」の感覚がおかしな方向に進んでしまったからなんだろうな。


あるいは、(プロの)歌う人とそれを買う、消費する人に分かれてしまったというか。
スポーツだろうと絵を描くのだろうと、学校では習うことは習う。
でもずば抜けてうまい人ってのがいて、専門的な学校に進んで、やがてプロになる。
歌もまたそういうものになってしまった。
歌がうまくて歌うことが好きで、人前で歌っているうちに認められた、
という人は今でもいるんだろうけど、少ないんだろうな。
どっちかっつうと流通経路としてきっちり定義されたオーディションなどを経て
商品として育てられていく。
そうだ、歌うという行為もまた商品になってしまったのだ。
そしてそれはコンテンツやパッケージというフォーマットで提供されるか、
歌われるためのステージがないことには成立しない。
そして素人には「披露」の場がないので、カラオケボックスに行くしかない。
部屋に友人たちが集まったときに歌を歌うというのはひどく奇妙な行為となってしまった。
日常的な行為として、成立しなくなった。手続きというかお膳立てが必要。
情操教育の一環として、親が小さな子供に対して歌うぐらいだ。


マンションやアパートの防音の問題もあるしね。
うるさいと苦情が来たり。
とにもかくにも世知辛い世の中だ。

    • -

いや、意外と歌っている人たちは多いのかもしれない。
誰も言わないだけで。
歌ってる人たちにしたら当たり前すぎて。
「いやー、この前家でメシ食っちゃったよー」
「家で風呂に入っちゃったよー」なんて誰もわざわざ話題にしない。
そういうのと同じで。
休日の夕食後に家族で歌ったりするのが普通な家も、一定の割合で存在しているに違いない。


だから、もし仮に僕が初めて「彼女」の家に
挨拶みたいな感じで訪問して、食事を振舞われた後で
オカムラ君、君も一緒に歌わないかね」とパパに笑顔で誘われるようなこともあるかもしれない。
「君はなかなかいいテナーを出すんじゃないかと、先ほどから思ってたんだよ」
ママは既にピアノの前でスタンバイしている。もう逃げられない。
「テナーが1人増えたら、私たちのコーラスもこれからは厚みが増すね」なんて言われて、
日曜の夜ごとに訪問して合唱することを暗に求められたりしたら。
当惑する僕に「いいんだよ、下手でも」と優しく諭されたりでもしたら。悪夢だ。
そして彼女はきょとんとした面持ちで僕のことを見ている。
「どうして?」「歌わないの?」とでも言わんばかりに。
・・・僕はその彼女の前からフェードアウトすると思う。
きっぱり分かれようとして、その理由に歌を挙げるわけにもいかないし。

    • -

ドイツのビアホールって山のようにソーセージとジャガイモが出てきて、
みんなして肩組んで歌っているようなイメージがあるんだけど、
そういうのもやはりなくなっているのだろうか。
日本にも昔は歌声喫茶なるものがあったようだけど、それもなくなった。
酒場でも歌われない。カラオケスナックぐらいだ。
そうだ、沖縄の人たちは都内の沖縄の店に集まってみんなで歌っていると聞く。
そういうところに細々と、古きよき日本の文化が残されているのかもしれない。