日常の風景

昨日の夜、遅くまで仕事して、
荻窪の駅を出てアパートまでの帰り道、
ふと前を見ると50代ぐらいのさえない男性が自転車を押していて、
70代ぐらいのその母親がその横をとぼとぼと歩いていた。
男性の話し方にはなんだか変な癖があって、早口で甲高い。
パチンコの出る台と出ない台の説明をしていた。
どうも毎日のように同じことを説明しているのに、
母親にはそれが飲み込めないらしい。
「前日のが1桁の番号のものが・・・」興奮して話している。
2人ともみすぼらしい格好をしている。
2人で日がな一日パチンコをやっているのだろうか。
「それ以外に、この人生でやることが、できることが、ないのかもしれない」そう思った。
見ていて、気が滅入ってきた。
足を速めて追い越した。
背後から聞こえてくる男性の声が、耳にこびりついて離れない。


パチンコに興味をもつ、知的障害を抱えた子供の、年老いた姿と
そのさらに年老いた保護者なのだ、ということに思い至ったとき、
いたたまれない気持ちになった。
どうしようもない気持ちになった。

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今日の昼、なんとなく松屋に入った。
牛めしに卵、味噌汁は豚汁に変更して、サラダ。
見ると、カウンターには気の触れたおばさんがいた。
荻窪の北口に住んでいる人ならば1度は見たことがあるだろう。
ブクブクと太っていて、一年中薄着でピンクや赤の派手な服を着ていて
(どこで買うのだろう?誰が買うのだろう?)
夏なんかだとサンバイザーをかぶっていて、
服同様派手な色の大きな鞄には何かがパンパンに詰まっている。
(今日のは赤に青に白の格子柄)
髪は茶色に染めている。
いつも道路をブラブラと歩いている。
立ち止まってじっと固まっていることもある。
見知らぬ誰かに話しかけていることもある。


松屋のカウンターにて、
誰が聞いてるわけでもないのに、一人きり、大声で話し続けている。
文法的には日本語のはずなのに、全然聞き取れない。
耳慣れないモゴモゴした単語で発話のほとんどが成り立っている。
「お父さん」「ありがとう」そういう単語が聞こえたような気がした。


食べ終わった食器が彼女の前に置かれていたから、お金を払った客なわけだ。
しかし店員たちはその存在が目に映らないかのように振る舞い、
(まあ松屋の店員というものは誰が客だったところで同じようなものだが)
来た客に牛めしを出したり、サラダの数を数えたり、奥のほうで談笑したりしていた。
店内には都会風の洗練された和風 R&B が流れている。
僕は牛めしをモソモソと食べる。
他の客も同じように、黙りこくってオーダーしたものを食べている。
何事もなかったかのように。
だけどどことなく居心地悪そうに。無関心を装って。
途切れることなく続く、架空の誰かとの、にぎやかなおしゃべりを聞きながら。
耳を塞いでも、それは聞こえてくる。

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昨日の男性、今日のおばさん。
こういう人たちにとって、この世界はどんなふうに見えているのだろう?


どんなふうな意味をもつのだろう?
僕らと同じようなものが見えているのだろうか?
同じものが聞こえているのだろうか?


そこには、何があるのだろうか?
その目には何が映っているのだろうか?


この世界は、美しいものなのだろうか?
あるいは、そもそもそういう感覚が存在しないのか。

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憲法記念日
荻窪駅前では第九条を守れ、とタスキを掛けた年老いた人たちが
ビラを配り、演説を行っていた。
黙って通り過ぎていく人たちばかり。駅の中に飲み込まれていく。
それでも彼らは、道行く人に根気よくビラを渡そうとする。

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東京は今日もよく晴れている。
5月にしては暑いくらいだ。


青空。


青空の下を、僕は一人きり、歩いた。