「砂の影」

今回、本気で腹が立った。
映画に興味のない人は、以下、読まないように。

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高校時代の映画仲間と「砂の影」という映画を見に行くことになった。
全編 8mm で撮影していて、それをデジタル化して上映というのに興味を持った。
友人は日本での 8mm の現像がギリギリ最後まで扱われていた数年前まで、8mm で撮影していた。


見に行ったのは2月29日(金)、ユーロスペースでのレイトショー最終日。
TSUTAYAで待ち合わせして、ユーロスペースで入場券を買って、
近くでメシ食うかと百軒店を歩いて「ムルギー」を探すも、金曜は定休日だった。
道玄坂を下っていって台湾料理の店「麗郷」で名物料理の「シジミ」と腸詰を食べる。
映画の話をする。僕らの高校の4つ下の人が今度監督デビューすると聞く。
その後ユーロスペースでチラシを探してみたら見つかった。横浜聡子という人。
青森市という何にもない場所でどんなふうにして「映画」に出会うのだろう?ってのが気になった。
大学卒業後映画美学校に入ったみたいなんだけど。
「先を越されたね」と友人と言い合う。

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で、見た。
http://www.sunanokage.com/


夏。役者を目指す恋人と何もないアパートに暮らす
これと言って特徴のないOLの淡々とした生活が
不可解な存在感を放つストーカーまがいの同僚によって崩されていく。
話はそんなところか。


実際の事件である「ラストダンス殺人事件」をモチーフにしているようだ。
http://yabusaka.moo.jp/nerima-ol.htm


はっきり言わせてもらう。
「こんなひどい映画生まれて初めてだ」


本気で怒った。


上映後、監督のフリートークがあって、それ聞いてさらに腹が立った。
監督の発言は僕にはこう聞こえた。
あくまで、こう聞こえた。


「8mm撮ったことなかったんですけど、
 企画が来たんで、金が出るんで、撮ることにしました。
 被写体との独特の距離感とか、
 撮ってる間、8mmってものがよくわかんなくて
 最後までピンと来てませんでした」


そんな人が商業映画として 8mm 回しちゃいけないと思う。
映画の売りにしちゃいけないと思う。
金、返してほしい。
8mm である意味がよく分からない。
見てても必然性のある絵ではなかった。


いや、それは100歩譲ってもいい。


そもそも、脚本が筋書きとしても台詞としてもどうしようもなく、演出が陳腐すぎた。
いまどき、なんなのこれ?


(例えばさ、旅館を経営しているという同棲相手の母親がやってきて、
 習ってる日舞を見せられて、「名取」に金がいるって言うことで金をせびられて、
 主人公はちょうど用意されていた5万円の入った封筒を渡す。
 これは何を表しているのか?
 主人公の置かれた状況が、周りの人たちが、いかにどうしようもないかを表している?
 そしてその中で続いていく日常生活の腐敗感を表している?
 それゆえに同性愛手との先のない生活が甘美なものに思えたのだということ?
 いきなりの日舞。なぜか用意されている封筒。
 こういう描写を僕らはリアルなものと受け取らなきゃならない?)


だめな脚本、だめな演出。
8mm がかわいそうだ。
日本映画最後の 8mm はこいつらが殺した。


人間が描けてない。とにかく描けてない。
描こうとして、こんなふうなんでしょ?とお手軽にやってみて失敗しているような。
アパートの「外」の世界も書割のようで主人公たちとの関係性に無頓着。
人形と背景でしかなかった。
アパートの外はアパートの外でしかなく会社は会社でしかなく。
8mm ならば夏の暑さはもっと、湿ってざらついててギトギトしたものにも描けたはずなのに。
8mm を、知らない。
そしてそれ以前に、人間を知らない。
人間の住む世界を知らない。

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フリートーク長崎俊一監督が登場。
作品の感想を聞かれて 8mm という映像世界の懐かしさを語った。
ここに全てが現われているように思う。
プログラムを見ても映画批評家は 8mm のことばかり書いている。
以前の作品に出演した人が監督について語っているが、最新作のことは触れていない。


ここに、如実に現われているように思う。


ARATAがいい演技してたのにな。
鈴木卓爾足立正生も出ていたような。
もったいない。全てが、台無し。

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このご時世に 8mm への「愛」とか「魂」とか語ってるのは暑苦しい?
そうかもしれない。


しかし、映画を映画足らしめているもの、
ドラマでもなくプロモーションビデオでもなく映画足らしめているものって
その1つにフィルムへのフェティシズムオブセッションってものがあるんじゃないの?
デジタルなメディアがどこまで進化したところで
映画の記憶は必ず、フィルムへと戻っていく。
そこのところを無碍に扱うならば、映画の神様に愛されるってことはきっとないだろう。
映画は表現の媒体としてはある種の手続きを必要とするので、ややこしいし、やっかいだ。
だけどそれゆえに映画を好きな人はとことん、映画が好きだ。


そうだ、この映画は8mmについて以上に、愛について無頓着なのだ。独りよがりなのだ。
この陳腐な台詞からは登場する3人の愛の姿は何も伝わってこない。
撮り方からも伝わってこない。
映画という表現は、愛する・愛されるという特殊な感情の形態から多くを成り立っている。
映画を撮るという行為、映画によって語られる内容。
そこに愛があるかどうか。それはどんな愛なのか。どの程度の愛なのか。
それでその作品の良し悪しが決まる。
見る人にそれはダイレクトに伝わってくる。


中途半端なことはしてはいけない。
大規模な予算の商業映画よりも、
素人が「面白い映画作りたい!」ってだけの強い思い込みと勢いで撮った
荒削りの作品が面白いのは、そういうことなのである。

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全ての自主映画人が見るべき。
特に僕ら世代より上の、いまだ映画になんらか関わっていて 8mm の記憶を持っている人は特に。


そして、憤ってほしい。