「4ヵ月、3週と2日」

昨日の朝、銀座テアトルシネマに「4ヵ月、3週と2日」を見に行った。
※以下、ネタバレ的な話だけどストーリーを知ることが全ての映画ではないのでそのまま書きます。


昨年のカンヌでパルムドール(最高賞)なんだけど、十分その名に値した。
何か新しい映画的価値観を提示した作品では決してないんだけど
「映画ってすごいな」と唸らせて唖然とさせる作品だった。


今から20年前(たった20年前、だけどもう20年前)、
チャウシェスク独裁政権下のルーマニア
ベルリンの壁が崩壊し、米ソ冷戦が終結する前のこと。
東欧諸国はまだ共産党による一党支配体制で
官僚主義が蔓延し、秘密警察の監視が当たり前。
法律で禁じられていた中絶処置を受けるガビツァと
それを手助けしようと奔走するルームメイト、オティリアの1日。
内容はたったそれだけ。


映画はオティリアの視点から描かれる。
大学でボーイフレンドに会って金を借りて、
中絶処置を行うためにホテルの部屋を予約して(袖の下にケントを1箱渡す)、
無愛想な医師ベベをその部屋にまで案内して、
金が足りないとなるとべべに体を提供して、
処置が始まって付き添っていなきゃならないのに
バスに乗って遠くまでボーイフレンドの母親の誕生日パーティーに行かなきゃならなくて、
それは社会の片隅に追いやられた知識階級のうんざりとするような会話がダラダラ続くもので
その間にガビツァの堕胎は終わってしまっている。
オティリアはその胎児を替わりに捨てに行く。夜の街を彷徨い歩いてその場所を探す。
ホテルに戻る。夜を徹してパーティーが行われている。
だけど、2人には何の関係もない。
1日が終わろうとしている。


責任感と行動力があるけど、それは当時の社会ではいたって普通のことだったオティリアと
世間知らずで、なのに腹立たしいぐらいにいつだって自分が正しくて、したたかなガビツァ。
そして年老いた母を抱えて、金のためだけに堕胎処置を行うがプロ意識も持ったベベ。


人間が描けていた。
人間とは弱さと同時に強さを兼ね備えた複雑な存在であるというのがきちんと描けてて、
それが主人公だけでなく脇の人物1人1人にまで貫かれていた。
ほんの一瞬登場するだけの人であっても。どういう人であって、どういう背景があるのか。
魔法というか奇跡に近いかもしれない。
時代考証がきちんとしていた、というのもあるだろうけど、
ここは監督のセンスとしか呼びようがないだろう。
結局のところ映画は「人間を描く」というところに始まって
究極のゴールもまた「人間を描く」ということに尽きるのだ。
凝ったストーリーを紹介するための「登場人物」に堕してはならないのだ。
そんな当たり前のことを、この映画は証明してみせた。


セリフの1つ1つ、表情の1つ1つ、小道具の1つ1つ。
映像と音声の1つ1つ、その全てに、その掛けあわせの全てに必然性を感じた。
どのシーンも「映画」的必然性があった。
例えばラストシーンのホテル。
灯りを落とされて静まり返ったレストランにて2人に供された皿の、
背後のパーティーで鳴り響く音楽の、意味・寓意。


その必然性ゆえに全編緊張感が高くて、手に汗握った。
中盤からどのシーンも全てがクライマックス。
例えば、ボーイフレンドの母親の誕生日のパーティーの居心地の悪さ。
そこに鳴るガビツァからの電話は喧騒にかき消されてオティリアにしか聞こえない。
そして電話が途切れる。
例えば、胎児を捨てに行くシーンで真っ暗な街を歩く、
何かに追い詰められたオティリアが抱く恐怖心。
視界に映る見慣れないものの全て。
鋭敏に研ぎ澄まされた耳に聞こえた音の1つ1つ。
高鳴った心臓の鼓動が聞こえてくるかのようだった。
クリスティアン・ムンジウ監督がアメリカに渡ったとき、
スリラー映画を一緒に撮らないかという提案がなされたという。
筋違いもはなはだしくて、ムンジウ監督はありきたりな恐怖心を煽りたかったのではない。
その当時のルーマニアがどんな状況だったのか、
独裁政権下においてささやかながらも罪を犯すことが
どれほどの重さを持つ行為だったのかを伝えたかったがゆえの、
人々が常に心の中で触れていた恐怖心を描きたかったがゆえのあの映像なのだ。

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長編2作目にしてこれほどの傑作を撮ってしまった
クリスティアン・ムンジウ監督のこの後が気になって仕方がない。
いくら質が高くても同じような作品を撮ってしまったら
世界中の映画ファンががっかりしてしまうだろうし。

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つくづく思うに、カンヌでパルムドールを取った作品って
その時々での映画にとっての「リアル」を突き詰めた作品なのだなあと。
「4ヵ月、3週と2日」は撮り方の傾向として言えば
ダルデンヌ兄弟の「ロゼッタ」や「ある子供」に似ている。(違うといえば違うが)


現実というものをどこまでリアルに切り取ることができるか?
セックスと嘘とビデオテープ」や「息子の部屋」「エレファント」「麦の穂を揺らす風」のテーマって
そういうことだと思う。
切り口が全然違うけど、「華氏911」だってそうだ。
その対極にある物として
ダンサー・イン・ザ・ダーク」「アンダーグラウンド」「パルプ・フィクション
といった「作り物」路線が出てきそうだけど、
それだってリアルという軸があって初めて作品としての問いかけが可能となる。


映画という媒体がいかにして現実というものと向き合うか。
いかにして現実について語るか。語りえるのか。
映画にとっての永遠のテーマ。
人間を描く、現実を描く。
完全な虚構、ファンタジーであったとしてもその背後には人間があって、現実があって。
そこのところに力強く踏み込んで、その人なりの、その時なりの、
全力の回答を提示できた作品があるならば。
感動を生むとはそういうことなのだ。