物が捨てられないのはどうしてか?

先日、こういう話をした。


物が捨てられない。
今問題にしたいのは、思い出の品の類なんだけど、それほど大事じゃないやつ。
 例) 愛知万博行ったときにどこそこのパビリオンで買ったなんたら


突き詰めると、記憶さえあればよいのではないかと思う。
人間の体1つで持ち運べる最後は記憶しかない。


しかし、その記憶もいつか薄れてゆく。
なのでこういう品を、楽しかった記憶を思い出すためのよすがとする。
なので必要じゃないか。


しかし、ここで再度、しかし。
薄れてなくなっていく記憶って、自分にとっても「その程度」のものなんじゃないか?
今はそれが頭の片隅にあるのはいいけど、いつかはなくしていいものなんじゃないか?


「でもそれって人としてあっさりしすぎじゃないの?」
「もしかしたらいつかなんかに役立つかもしれないのに」
結局そういう理由で物が捨てられない。


今すぐ使うことはないにせよ、ある日部屋を片付けていたら出てきて、
思わず見入ってしまってあのときの楽しい記憶を思い出す。
それで十分じゃないか。
というとき、じゃあ、それが実際に起きる可能性はどれぐらいあるのか?
確率論の問題になる。
5%だとしたとき、それは多いのか少ないのか。


確率論の話となると
「打率.280は残り.720が打ててないからダメだという話になるのか?」とか
「打率.280だとしても得点圏打率になると.300になる。これはどう考えるのか?」とか
いろいろややこしい議論になってきて収拾がつかなくなってくる。


思い出の品は一箇所にまとめて保管しておいた方が確率が高くなる?
いや、そりゃ高まるかもしれないが、感動は薄くなるだろう。
予想外のところからひょっこり出てきたときの方が
しみじみとした再会感が強まるのではないか。
つまり、数字じゃない。


問題は「記録」の王貞治ではなく、「記憶」の長島茂雄なのである。
それをどのように評価するか?
感覚的に捉えるしかないものをどのように定義するか?


定量的な評価と定性的な評価。
それは部屋の中のいらないものを捨てるということにももちろん当てはまる。
そしてそういうことをウダウダ考えていると
結局のところ物を捨てるところまで行き着かずに1日が終わってしまう。
「ああ、今日もまた定性的な物差しが自分の中で確立できなかった」
定量的な物差しで全て計るようなドライな人間でもないし」


判断の基準がない状態で決断を下す、大ナタを振るうのにはパワーが要る。
今、愛知万博行ったときにどこそこのパビリオンで買ったなんたらを捨てることに
そんなパワーと時間を割いていいものだろうか?
僕はそんな暇人だろうか?


まあ要するに屁理屈でごまかして、めんどくさがりなだけですね。