ある日、街を歩いていたら盲目の若い男性とすれ違った。
付き添われて杖をついて歩いていた。
髪を今ふうの若者っぽい、茶色に染めていた。
不思議に思った。
彼は目が見えない。なのになぜ、髪を染める必要があるのだろうか?
(これは、偏見と思われても仕方のない発言だ。
もちろん僕としてはそんなことが言いたいのではない)
それは、誰のために染めたものなのだろうか?
自分のため?それとも周りの人のため?
髪を染めたら自分はどんなふうに見えるのか?というのを理解するのは難しい。
だとしたら、周りの人の「○○君、髪を茶色にするのどう?」って言葉に応えたか。
それとも、同年齢の若者と同じように見られたい、自分は何も変わらないという思いか。
僕も時々、髪を茶色く染めようかなと思うことがある。
今のPJが1年近く続くのなら、それもありなんじゃない、と。
このとき、なぜ染めるのか?という理由は
自分にとってそれが似合うから、鏡を見てもそう思うから、というのとはちょっと違う。
具体的なヴィジュアルではなくて、あくまで自分の中の自分についてのイメージ。
そう考えたとき、何も変わらないか、と思った。僕も、彼も。
以下、取りとめもなく考えたこと。
・目を開いている。視力がある。
なのに見えていない。即物的な意味で、比ゆ的な意味で。
僕は、どれぐらい「見えてない」のだろう?
視覚情報として認識しているが、理解していない、理解する気がないというのもあるだろう。
・視覚は単なる五感の1つに過ぎないのか?
失うことの疑似体験として、「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」がとても気になる。
http://www.dialoginthedark.com/
暗闇の中を歩く、音や感触というものを再発見する。これ、行ってみたい。
・目が見えているのに、見えるものが永遠に変わらないとしたら人は精神のバランスを崩すだろうか?
真っ白な部屋がどこまでも続いていて、誰もいなくて、自分の体のパーツしか見えない、とか。
砂漠も、そう。何日も何日も歩き続ける。
風景が単調なとき、脳が受ける刺激が少ないならば、少しずつ麻痺していくのではないか?
・あるいは、なんらかの特殊なアイマスクをして映像を見せ続ける、
手に触れるもの、音に聞こえるものとは別の視界が広がっている。
こんな状態で何週間、何ヶ月と過ごす。
感覚のズレはどういう「症状」を生み出すだろうか?
・話全然変わるけど、今思い出すと「ブラインドネス」ってとてもいい映画だったな。
ガエル・ガルシア・ベルナルの印象が強く残っている。
華のある、いい役者だ。かっこいい。
初監督作「太陽のかけら」が4月に公開されたようだが。
・どこで読んだのか思い出せないが、
盲目の叔父が映画館に行くのが趣味で、・・・というくだりのある小説があった。
音だけでも十分に楽しめるし、映画館の雰囲気ってものがそもそも好きだ。
そんなことが理由として語られていたように思う。映画ではなく、あくまで映画館。