スペイン一人旅 その8(7/25:ゴヤってどうよ?)

okmrtyhk2009-08-07


世界的な美術館を名乗るだけあって、大きい、広い。
時間をかけてゆっくり一つ一つ鑑賞していたら1日では見切れない。
今日これから3つ見なきゃと息巻いている僕はどうしても駆け足になってしまう。
そもそも、19世紀より前の宗教画って全然興味なかったし・・・


中は大きく地下と1階に分かれていて、2階にもちょっとだけ展示スペースがある。
あと、別館がある。こちらは企画展が行われているようで、
別途チケットが必要ということで今回は見送り。
たぶんスペインでは有名なんだろうけど、全然知らなかった人の回顧展だった。


他の都市がどうなのかは分からないけど、
地図を見てみるとマドリードバルセロナはその土地の多くが碁盤の目のようになっている。
意外と理路整然としてるんですね。
それが影響してるのかどうなのか、
ここプラド美術館も展示室の多くが碁盤の目のようになっていて、
日本の美術館のように順路に沿っていけば全て見れる、とはなっていない。
なのである程度自分の中でルールを決めて前後左右動きながら見ていくんだけど、
これ、絶対どっか見逃してそう。大事な作品のいくつかを。
ゴヤの有名な「着衣のマハ」「脱衣のマハ」のセットと
同じく「わが子を食うサトゥルヌス」がどこを探し回っても見つからなくて、
恐らくどこかの美術館に貸し出されてるんだろうけど、
これがただ単に見落としただけならばかなり心残り。


ソフィア王妃芸術センターのように「ゲルニカを見るぞ!」という目的もなく、淡々と鑑賞する。
なぜ自分はこういった宗教画が苦手なのか?ってことを考えながら。
右を見ても左を見ても、キリストの磔だとか復活だとか
祈りを捧げる聖者の下に天使たちが舞い降りてきたとかそんなのばかり。
早い話が飽きてしまう。同じような主題でタッチが多少変わるだけ。
線が太いのか細いのか、色使いが明るいのか暗いのか、その程度の差でしかない。
描いた人が楽天的なのか悲観的なのかぐらいのことしか、僕には伝わってこない。
その人が何を訴えかけたかったのか、そのためにどのような方法を取ったのか、
ということにどうしても僕は興味があるんですね。
だから、日本だろうと海外だろうと美術館でこれらの時代の絵を見ることがあっても、
どうせつまらん、と端から拒否していた。
それが今回、ものすごく格調高い世界的に有名な美術館で、
「それしかない」となると嫌でもあれこれ考えてしまう。


分かった。こういうことだった。
情報量が多すぎるのだ。
つまり、この当時の画家にとって題材とは自らの内に見出すものではなかった。
画家が生まれる前からそれはあって、
そのために絵画というものが描かれるのは当たり前の決め事だった。
教会や王室のために描かれるという公式のものならばなおさらだ。
そしてそれは何よりも、「キリスト教価値観に基づく歴史的事実」を伝えるためのメディアだった。
マクルーハンじゃないけど、イコール、メッセージだった。
それは、器に過ぎない。そしてそこに、できる限りのことを盛り込まなければならない。
中世の絵画は時として3枚とか7枚のセットになっていて、1つのストーリーを伝えることになっている。
様々な登場人物がいて、着ている服の色からして意味というか意図があったりする。
それを読み解かなければならなくて、見てて疲れてしまう。
絵を鑑賞するのではなく、新聞を読むというのに近い。
その絵が美しいかどうかだけではなく、
キリスト教価値観に基づく歴史的事実」がちゃんと伝わるかどうかもまた同時に問われる。
そしてその後者を一切遮断して眺めてると、味気なくて何が面白いのかちっとも分からないということになる。
裏返しに言えば、近代とは主題を自らの内に求め始めた時代と言えるのではないか。
主体性というものが生まれ、客体性もまた影のように生まれる。


1階で興味深かったのは、ベタだけど、
やはりボッシュの「快楽の園」の一線を画した享楽的な色彩と抜けるような空の青さ、
ピーテル・ブリューゲル(父)の描く「死の勝利」の殺戮の場面、
そのパズルのような謎解きのような上記宗教画とは別の意味での情報量の多さ。
あと、初めて知った画家で、ヨアヒム・パティニールの、
夜明け前を思わせるような独特の青の色使い。(この人もまた、フランドルの人だ)


2階は、エル・グレコとベラスケス。
エル・グレコの独特の輪郭をぼやかした曖昧な色彩の絵って僕はとても好きかもしれない。
初めて認識した。
周りの同時代の絵と全然違う。
当時「芸術」とされていたものが退屈なものに思えてきて、
突き破りたいんだけどどうしていいか分からない、そういう独特の乾きや飢えが感じられる。
そのもがいて苦しむ様がそのまま絵として結実している。
その歪んだ線は、この世は周りの画家が描くような美しいものではないという強い否定なのではないか。
僕は、フランシス・ベーコンの絵を思い浮かべた。
一歩間違うと全てが禍々しい。


ベラスケスはその魅力が何なのかよく分からない。
あえて言うならば、エル・グレコがあるがままに描いた己の苦悩を
ベラスケスは昇華させ、当時の芸術のあるべき姿として結実させたのではないか。
どことなく人間の二面性が感じられるんですね。
ベラスケスは「視点」の概念。見つめる人と見つめられる人の交差を導入し、
近代絵画の出発点とされた(と、どこかで読んだ気がする)
「『ラス・メニーナス』又は『フェリペ四世の家族』」を見ることができた。


これら2人については、展示スペースの片隅で1ユーロで小さな鑑賞ガイドが売られていて、
日本語のがあったので両方買ってみた。
夜、パエリヤを食べながらその経歴について描かれた個所を読んだ。
やはりエル・グレコ(これ、本名じゃなくて「ギリシア人」ってことだと今更ながら知った)は
自分の思うがままに生きていた天才肌であって、
ベラスケスは宮廷画家としてだけではなく、
私室取次係や衣裳部屋係といった宮廷の職務もこなすなどバランスの取れた人だった。


問題はゴヤ。同じく、その魅力が何なのかよく分からない。
そしてそれが今度は否定的な方に倒れる。
「脱衣のマハ」と「わが子を食うサトゥルヌス」を見れたら印象が全然違ったんだろうけどね。
多くの絵で人々の描き方が楽天的というか。ほっぺが赤くて。そこになんだかなあと。
無条件で人を信じた人なのだろうか?


ルーベンスは美しいものはとにかく美しく描くべし、という信念の揺ぎ無いところに好感を持った。


1階の奥に、18世紀末のモンゴルフェ兄弟の気球を描いた絵があった。
やはりこの頃の絵って、ジャーナリズムの側面、史実を伝える側面があったわけですね。


上記のミニガイド2冊以外に買ったのは、
ボッシュの「快楽の園」とピーテル・ブリューゲル(父)の「死の勝利」の絵葉書と、
ミニ版の見学ガイド(日本語ガイド)で7.5ユーロ。


一通り見終わって、昼近く。
カフェで生ビールとスペイン風オムレツで6.6ユーロ。
歩き回った後のビールはうまく、ほうれん草やズッキーニの入ったオムレツもおいしかった。


日本人観光客、特にツアーの集団を多く見かけた。