波打ち際

学生時代の映画サークルで、こんなことがあった。
季節はちょうど今頃、冬だった。


ある日先輩から呼ばれて、次の日曜、”ロケハン”(ロケーションハンティング)
つまり、今度の映画の撮影場所を決めるためのドライブに同行することになった。
他に誰が行くんですか? と聞くと主演女優の××さんも一緒だという。
表立って誰も話題にしないが、先輩と××さんが
以前の撮影をきっかけに付き合いだしたのは皆が知っていることだった。
そのことを先輩も知っていた。
「2人で行けばいいんじゃないですか?」
「いや、運転替わってもらうかもしれないから。あと、オマエ当日機材持ち」


千葉の寂れた海辺に行くことになっていた。
日曜の朝8時に集合としていたのに先輩が思いっきり遅刻した。
部室で××さんと2人きりで待つ。
先輩は1コ上、××さんは2コ上で春から就職が決まっていた。アパレル関係。
僕が入学した年の夏合宿で、1人水着を着て海で泳いでいたことを今でも思い出す。
でも、そんなことは言わない。
ソファーに離れて座って、就職活動の当たり障りないことを話す。
「映画にはもう出ないんですか?」
「そうね。引っ越すことにもなるしね」


出発する。首都高に乗って、川崎方面を目指す。空いてもなく混んでもいない。
東京湾アクアラインへの合流ポイントを見誤って横浜まで行ってしまい、引き返す。
地下のトンネルに入る。オレンジ色の光が車の中を貫く。
僕は後部座席に1人座って通り過ぎる水銀灯を数えていた。
助手席に××さんが座る。先輩と時々片言で会話を交わす。笑い合う。


11時前。「海ほたる」で休憩する。ファミレスに入って食事。僕はドリアを食べた。
××さんと先輩は何だったか忘れたが、同じものを頼んだ。
先輩がタバコに火をつける。
その場にはいない部員の噂話をして、
当時僕が作るつもりでいた映画のストーリーをあーだこーだ意見された。
その間、××さんは頬杖をついて外を眺めていた。
灰色の波間。白い鳥たちの群れ。京浜工業地帯。
先輩が「行くか」と突然立ち上がって、1人先に出て行った。


その場所を何度か訪れたことがあると先輩は語っていた。
木更津、君津、富津の町並みを国道沿いに潜り抜けて、山の中へ。
ナビも必要とせず、迷わずその海水浴場へと到着した。
駐車場は他に車が停まっていなかった。
僕は機材の入ったボロボロのボストンバッグを抱えて2人の後を追った。
砂浜は風が強かった。××さんは砂に足をとられて、歩きにくそうにしていた。
先輩は波打ち際に向かって立っていた。
僕はバッグを下ろすと三脚を取り出して足を伸ばした。
ビデオカメラにバッテリーを取り付ける。
一応マイクのコードも挿して、予備の小さな三脚に固定した。


先輩はその場の風景を、何枚か持ってきたデジカメで撮影した。
自分はビデオカメラのファインダーを覗こうとせず、全てを僕に任せた。
脚本を手に、××さんがセリフを言った。
波の音と風の音にかき消されて、ヘッドホンをすると何も聞こえなかった。
それでも僕はテープを回した。
××さんが歩き出して、僕がそれをパンで追った。遠くまで歩いていった。
ふと振り向くと先輩は足元の何かを見つめながら、タバコを吸っていた。


「コンビニ探して缶コーヒー、ホットで」
先輩が放り投げた鍵が砂浜に落ちる。僕はそれを拾い上げて駐車場へと引き返した。
車を出して国道へ。セブンイレブンが見つかって、缶コーヒーを3本買う。
駐車場に戻ってくる。缶コーヒーの入ったレジ袋を手に、波打ち際へと向かった。


××さんがへたりこんで泣いていた。
少し離れた場所に先輩が背を向けて立っていた。
僕が近付くと先輩が気づいて、レジ袋を受け取った。
僕が××さんのほうに向きかけると、「いいよ」と先輩は言った。
先輩が缶を開けた。××さんは泣き続けていた。
三脚が倒れて、ビデオカメラが砂に埋まっていた。
僕はそれを起こした。修理が要るな、と思った。
僕は機材を片付け始めた。
ボストンバッグに砂まみれのまま詰めて、
何事もなかったかのようにいつものペースを装いながらその場を後にした。


トランクを開けて荷物を押し込む。
遠くに公衆トイレがあるのを見つけるとゆっくりと時間をかけて駐車場を横切った。
水道で水を流しながら三脚やカメラについた砂を洗い落として
油汚れのこびりついたタオルのきれいな箇所を探して拭いた。念入りに吹いた。
顔を上げるとくすんだ鏡があって、僕が映っていた。僕は目を逸らした。


波打ち際に戻った。
××さんはいなくなっていた。いつのまに? どこへ?
先輩がタバコを吸いながら待っていた。
缶コーヒーが2本入った袋を突き出す。「冷めたよ」
受け取って1本開けて飲んだ。妙に甘ったるくて、途中から嫌になった。
砂の中に半分以上捨てた。投げ捨てた缶を、息を落ち着かせてから拾い上げた。


帰ろう、と言われて2人無言で砂浜を歩きだした。先輩の後をついていく。
「運転頼む」僕は頷いてドアを開けた。
先輩が助手席に座る。深く座席に沈みこんで、その目は何も見ていなかった。
僕は何も言わずにハンドルを握った。
どこかを××さんが1人歩いてるんじゃないか、それとなく探しながら。
山道を前後トラックに挟まれながら進んでいく。
富津市外に入って、僕は諦めた。


東京湾アクアラインの薄暗いトンネルの中を黙って走り抜けた。
東京に戻ってきて、運転を交代した。
住んでたアパートの近くまで先輩に送ってもらい、
そこで「じゃあ」って感じで別れた。


先輩の映画は、中断したまま結局それっきりになった。
それ以後新しい作品を撮ることはなく、就職活動をして社会人になった。
××さんは何事もなかったかのようにサークルの集まりに顔を出していたけど、
追い出しコンパを最後に僕らの前に姿を現すことがなくなった。
僕が生まれて初めて作った映画はたいした評判にもならず消えていった。
そして僕もまた社会人になった。


言いたかったことは、冬になって思い出したことは、それだけ。
ただ、それだけ。
僕は35歳にもなって、今もまだそんなことを思い出している。