日々の泡

僕がまだ若くて、携帯電話なんてものがなかった頃の話だ。


借りていた本を何冊か返そうと彼女の住んでいたアパートを訪れた。
いなかったら紙袋のままポストに入れておこうと思った。
チャイムを鳴らしてしばらく待ってみると、ドアが開いた。


知らない女の子が立っていた。
「誰? …もしかして」と僕の名前。「…さん?」
彼女に似ている。そっくりだと言っていい。だけど別人だ。
「はじめまして。妹なんです」
あ、ああと僕は言う。少し戸惑う。紙袋を前に出して、
「じゃあ、これ渡しといてくれないかな」
視線を少しだけ動かして、
「すぐ戻ってくると思いますよ。中で待ちませんか? いてほしいんです」
「いや、…ああ、じゃあそうする」
土曜か日曜の午後。他に用事があるわけでもない。
ここを出たらブラブラと駅前の本屋を覗いて、その後喫茶店に入るぐらいだった。


コートを脱いだ。
彼女の狭い部屋には不釣合いなほど大きなソファーがあって、僕はその端に腰掛けた。
持ってきた本のどれかを読み始めた。
コンロにかけられていたやかんが湯気を沸騰しているのが聞こえた。
棚を開けてマグカップを二つ、取り出す。
キッチンのテーブルに置かれた、コトリという音。
「コーヒーでいいですか?」返答を求めているような口調ではなかった。
ピンポンとドアチャイムが鳴る。
妹が玄関の方まで歩いていってドアを開ける。話し声。男の足音。
顔を上げる。部屋の中にヌッと若い男が入ってくる。
「誰?」と妹の方に聞く。妹はその袖を掴んでキッチンの方に引き込む。
僕よりも一つか二つ若そうだった。


僕は立ち上がって本を閉じ、持ってきた本を机の上に並べて置いた。
そして部屋から出て行こうとした。
キッチンで妹は三つ目のマグカップにお湯を入れているところだった。
「コーヒー…、三人分つくっちゃったから」
その脇で若い男が煙草を吸っていた。
はい、と僕にマグカップを手渡す。「ありがとう」
三人で立ったまま、コーヒーを飲んだ。無言で、特に会話もなく。
「向こうで座りませんか」若い男が隣の部屋へと促す。
そうすることにした。僕はソファーのいつもの場所に腰を下ろした。
反対側の端に男が、机の椅子には妹が座った。
妹がなんとはなしに僕と男とを紹介しあい、僕らは会釈した。
聞くまでもなく、二人は交際しているのだろう。


男がテレビをつけた。チャンネルをいくつか切り替えてゴルフの中継になった。
「ゴルフしたことあります?」僕に質問しているようだ。
「いや、ないけど」「俺もないんですよね」「そう」
妹はどこかで聞いたことのありそうな曲をかすかにハミングした。
僕が持ってきた本を取り上げて、興味なさそうに読み始めた。そんなふりをした。
そしてそれとなく、僕という存在を観察し始めた。
僕は何も言わなかった。


コーヒーを飲み終えて僕はマグカップをキッチンまで持っていった。
コートを着て、「じゃあ」と僕は部屋の中に向かって言った。
引き止められなかった。
二人は何の思いもなさそうに、それぞれチラッと僕のいる方を見た。


靴を履いて出て行こうとしたら、ドアが開いて彼女が立っていた。
一瞬、驚いた表情を浮かべる。
僕は言う。「いい? 歩こうか」彼女は黙って頷いた。
町内を二・三分、駅の方に向かって歩いた。すぐ横に彼女がいる。
二人とも何も言わない。
遂に口を開いて、「どうして?」と彼女は言う。
「中で待っててくれって言われたから、そうした」
僕はあの部屋の中で、二人がキスをしているところを思い浮かべる。
僕と彼女がそうしたように。
立ち止まって僕は別れ話を切り出す。
近いうちにそうなることはどちらとも分かっていた。僕の方から切り出した。
「さよなら」
そう言って僕は立ち去った。彼女を後に残して。
振り返らない。なんだかめまいがした。
駅まで着いて、電車を待った。ホームから彼女の住んでいた町を見下ろした。


そしてそれっきり。
二度と会うことはなかったし、電話もしなかった。
妹の方は一度町で見かけたように思う。すれ違った。
だけど向こうが気付いていなかったから、僕もそのまま歩き去った。