猫に会いに行った日

僕が学生時代、ペットシッターのバイトをしている子と付き合っていた時のことだ。
そういう家で育ったので僕は犬も猫も興味なかったが、
彼女は遠く離れた故郷の家では犬や猫どころかインコやトカゲも飼っていたのだという。
だけどその頃住んでた学生向けのアパートってのはどこもペットNGが普通なもんで。
彼女は1年生のうちに教養過程の必要な単位をあらかた取り終わって、
2年目は週に3日出ればよかった。
だから空いた平日2日(水木だったか、水金だったか)と、土日のうちの片方をバイトに充てていた。
 
あの頃は暇はあっても金がなかったから、時々彼女のバイトについていった。
自転車に乗って家の前に停める。
一軒に付き屋内で30分世話をする。
給餌機とトイレをチェックして、ボールや猫じゃらしで遊ぶ。
郵便物をリビングのテーブルの上に持って行ったり、庭の水やりをすることもある。
犬の場合はそこにオプションで散歩が付く。
犬が2匹や3匹だった時も彼女は僕に手伝わせたりはしなかった。
彼女が犬に引っ張られて楽しそうに歩いているのを後からついていく。
知らない町を歩くのもいいか、ぐらいに僕は考えていた。
 
もちろん、僕が家の中に入ることもなかった。
近くを散歩したり、コンビニで雑誌を読んで過ごした。
他人の家でやったら興奮するだろうな、なんてことを思いながら。
30代や40代の夫婦の寝室。ダブルベッドがあって、その家の生活の匂いがあって。
やってる最中にもしかしたら帰ってくるかもしれない、というのもいい。
だけどそれを夜になって言ってみたらバカじゃないの? と一蹴された。
 
彼女は依頼人の生活には立ち入らない。
そのとき相手した猫や犬のことだけを僕に話した。
一度、キャンセルの連絡がうまく伝わらなくて依頼人がまだ家にいることがあった。
何度か利用して信頼関係が生まれると合鍵は預けたままになる。
彼女が家に入ったら中に人がいて、依頼人が部屋にいたら玄関から誰か入ってきてお互い泥棒だと思ったと。
そろそろ犬の散歩の時間かと戻ってきた時、大きな笑い声が聞こえてきた。
いつも世話をしていた犬のことで話題は尽きなかったという。
 
そんな彼女も3年生に上がると研究室に入ることになり、バイトができなくなった。
授業を受けずに雀荘に入り浸っていた僕は案の定留年した。
しかし落とした単位はそんなに多くはなかったから、さらに暇ができたというだけだった。
バイトを引き継がない? という話になった。
動物なんて相手したことないよ、と最初は断ったが、彼女はやってみないとわかんないよ、と。
事務所に挨拶に行って簡単な面談をして、
初めてでも楽なお客さんのところに通ううちにいつか慣れるだろう、ということになった。
彼女の薦める人ならばきっときちんとした人なのでしょうと言われ、彼女はちらっといたずらっぽく僕を見た。
 
3月の1ヶ月、彼女と一緒に回った。
鍵を開けて中に入る。初めての日は猫だった。
雄猫で2歳。人見知りは猫も僕も同じ、かつ雄は雄を苦手とする。
玄関にいると2階で物音がして、階段を上がるとその猫がいない。
隠れたのか。リビングとキッチン。ソファーの下を覗いたりしてみるが見当たらない。
まあいいかと彼女は、この家だと猫のトイレの場所はここ、
こんなふうに猫砂を専用の袋に捨ててとレクチャーをする。
犬や猫の具合が悪く病院に連れていく場合にはどうするか、という話にもなった。
給餌機に入ったカリカリの量が十分か確認する。
猫が走り回ってめくれたままになったカーペットを直す。
 
一通り終わると猫を探した。名前はプーちゃんなのだという。
プーちゃん、プーちゃんと声をかけながら探し回る。
初めてのことなのでその声に出すというところからして僕には大変だった。恥ずかしかった。
浴室や和室にもいない。
寝室だとか立ち入ってはいけない部屋には鍵がかかっていた。一階も見てみる。
一部屋だけ、ドアの開いた部屋があった。
物置代わりにしている部屋だった。本や段ボール箱が積み上げられていた。
試しにウオーキングクローゼットの引き戸を動かしてみたら、……その陰にいた。
おびえるように、小さく震えている。
恐る恐る見上げてニャアと細い声で鳴いた。真ん丸に見開いた目が合った。
こんなときどうしたらいいんだ?
かがんで手を伸ばそうとしたらすり抜けてピューッとクローゼットを出ていった。
 
2階の彼女に声をかけて下りてきてもらった。
2階にいたはずなのに、と僕が言うと、猫ってそういうもんだからと彼女は言う。
ほらここにいる、と小さなソファーの下でうずくまっているプーちゃんを見つけた。
あなたはいったん上にいて、あ、そのまえに猫じゃらしを持ってきて。
トイレの脇におもちゃ箱があるから。
言われたとおりにした。渡して、2階に戻った。
知らない人の家。本棚には知らない本が並ぶ。
それぐらいいいだろうと僕はそのうちの一冊を手に取った。
山岳救助の体験談を集めたものだった。
捜索隊を編成して冬山に入っていくが、吹雪が強くて諦めざるを得なかった。
その無念について語っていた。
 
ソファーに座って読んでいると、そのうちに彼女が上がってきた。
だめよ、他のものを触っちゃと彼女は言う。だけど笑っていた。
1階で遊んで、今はクッションの上で丸くなっていると。
そーっと見に行ったら? でも近づきすぎないように。奥の方にいるから。
抱きかかえて、僕のことはいい人だと話しておいたよと。
 
足音を立てないように階段を下りて部屋を覗き込む。
いた。こちらをちらっと見た。
今度は逃げたりしなかった。
いつの間にか彼女も下りてきていた。
来週もう一度来るから、そのときにはお世話させてもらえるかもね、と彼女は言った。
そして彼女の方から頬にキスしてきた。
僕はキスを返すことができなかった。
 
行こうか、もう時間と2階に上がって、彼女は手早く専用の用紙に報告書を書いた。
これ、最後に書くようにして。
そこには「新しい担当の方と一緒に来てプーちゃんは驚いていたようです」とあった。
その家を出た。この日はあと2軒回った。翌日も3軒回った。
 
気が付いたら僕は卒業までずっとそのバイトを続けていた。
訪問予定の時間を間違えたり、合鍵を忘れて事務所に戻ったりしながら。
プーちゃんの世話もそこから4年続けたことになる。
就職活動をして、普通の会社に入った。
バイトの最後の日はたまたまプーちゃんだった。
腹を見せてくれるまでになっていた。頭をなでると嬉しそうにニャアと鳴いた。
ゴロゴロと喉が鳴る。プイと背を向ける。
これから先、このプーちゃんに会うことはできない。
 
彼女とはバイトを引き継いで半年ぐらいして別れることになった。
たいした理由はない。ペットシッターのことも留年や研究室のことも関係がない。
些細なこと。どうでもいいこと。
 
働いて、結婚して、中古の家を買って今は猫を飼っている。
ただそれだけのこと。
ただそれだけのことなんだけど、
自分にとって人生を変えた出来事は案外こういうことだったんだろうなと。