駅を出て西に通りを歩いていく。
日本で言うところの団地が立ち並ぶ、ごく普通の市民たちが暮らす一角となる。
ベランダにはボロボロになった映画のポスターやサッカーボール、衛星放送のアンテナ。
壁が黄色やレンガ色などカラフルに塗られているが、どれも落ち着いた色彩となっている。
葉を落とした寂しい木々がところどころにポツンと立っている。
そういう住宅街の中に「ベルリンの壁記録センター」があった。
小さなこじんまりとした建物だった。入場は無料。
どちらかと言うと資料館に近い。セミナーを行なうための教室であるとか。
中に入ると受付に座っていた初老の女性がパンフレットをいくつかくれた。
2階へ。ベルリンの壁に関してその歴史を説明するための展示。
映像とパネルと。その配置がアートとして美しい。さすがベルリンだな、と思う。
1945年の敗戦、1961年に壁が築かれて、1989年に崩壊、1990年に東西ドイツの統合。
その大まかな歴史、ソ連との関係や東欧の民主化運動など
大まかなところは頭の中にあるので、説明の文章は省く。
スライドを上映しているスペースがあった。
1961年から1967年までの膨大な量の写真が音もなくゆっくりと切り替わっていく。
ある日突然に築かれて、多くの人々を切り離した「壁」の存在。
そこから生まれた無名の人々の悲劇。
その一方で何事もなかったかのように引き戻され、続いていく日常。
兵士たち。市民たち。子供たち。若者たち。
哀しみを浮かべている人もいれば、とまどいを浮かべている人もいる。
兵士たちは命令に背くことのないよう、冷徹な振る舞いをしようとする。
スライドの合間にこんな言葉が挟まれた。
「But we are all Germans after all」
有刺鉄線、街頭の戦車、群がる人々。
外の階段を上って4階だったか5階だったか、
屋上から保存された壁を上から眺めることができる。
壁から離れた場所に小さな見張り所が建てられている。
さらに離れた場所にそっけない街灯がポツンと等間隔で。
直線の壁が淡々と続く。
壁は手を掛けにくいようにてっぺんが盛り上がって丸められている。
かつてはあの見張り所に兵士が立っていた。
そしてあの壁を越えようとして射殺された人たちがいた。
下りていって実際に壁を見る。壁に触れる。
寒々としていて、ぞっとした。
真冬だから、というだけではないだろう。
多くの人々の絶望や希望、悲しみや諦めを吸収して無言で立ち続けてきた壁。
その重苦しい歴史の重み。
何も語ろうとしない、風化した灰色のコンクリートの壁が
とてつもなく怖ろしいものに感じられた。
広場に入る。十字架が立っている。
壁。先ほどは通りに面して東側だったが、こちらでは反対側、西側から眺めることになる。
色褪せたグラフィティがそのまま残されている。
とりとめもなく、たわいもなく。
落書き一つ許されなかった東側と対照的。
しかし、この西側のグラフィティもまた自由への叫びに感じられるんですよね。
わずか数メートル先、壁の向こうに暮らす人たちがいる。
彼らは社会主義国に閉じ込められていて、自由を求めている。
あらぬことで疑われて死刑となる者もいる。
引き裂かれたが、かつては同じ国の人間だった。
そうと知ってて、いい加減な思いで描けるだろうか?
単なる気晴らしであるわけがない。
それは祈りであり、一方的なものであれ、希望を込めた交信だった。
広場の中央には簡素な棚が建てられ、その枠の1つ1つに写真がはめ込まれている。
東側からベルリンの壁を乗り越えようとして射殺された、名もなき人たちの写真。
そのうちのいくつかには花が供えられていた。
記録センターからもらったパンフレットにはこの一帯の地図が描かれ、
誰がどの位置で倒れて亡くなったかが1人1人記されていた。
壁が取り除かれた箇所には地面から突き刺さったままの、赤錆びた鉄芯が残されていた。
最初、ピンと来なくて、オブジェ? と思った。
それが何であるか気付いたとき、ぞっとした。
強い風に吹かれて、工事現場のビニールのカバーがまとわりついていた。
取り除かれた後の壁がいくつかまとめて並べられているエリアがあった。
都市部の壁ではなかったのだろう、
コンクリートが崩れて鉄骨がむき出しになって、枯れ果てた蔦が絡まっていた。
「ベルリンの壁」を見たかったら、必ずここを訪れるべき。
英語のサイト: http://www.berliner-mauer-gedenkstaette.de/en/
残念ながら後で気付いたんだけど、
通りの端に記録センターの他にもヴィジター・センターがあったようで
他にも展示があったようだ。
上記のスライドを写真集としたものが売られていたかもしれない。
記録センターの隣には「和解の礼拝堂」が建っていた。
配られていた日本語の資料を読んでみた。
かつてここには教会が建てられていたのだが、
監視の邪魔になるとして1984年東ドイツ政府によって破壊されたのだという。
小さな祭壇に、十字架が立てられていた。