サイレンが鳴った。
工場からの帰り道、僕は自転車を押して歩いていた。
夜。町はシンと静まり返って、後はもう眠るだけ。誰もがそのまま歩き続けていた。
僕はいつものように心の中で長さを数えた。1つ、2つ、…29、30。
ジリジリとジリジリと。単調な音が続く。ジリジリとジリジリと。
突然、鳴り止む。僕は立ち止まり、また歩き出す。
「それでいいの?」と彼女は言う。あの夜、泣いていた。そんなことを思い出す。
工場でつけていた帳簿を机の2番目の引き出しにしまったこと。
煙草の配給が途絶えて、誰かから貰わなければならないこと。
心の中で、サイレンが鳴り始める。かすかに。断続的に。
見上げると、星のない空。
「どうしたいの?」「どうしたらいいの?」
母親に手をつながれた子供が、節のない歌を歌う。それを母親が押しとどめる。
野菜を切って、料理して、ラジオを聞きながら食べる。
部屋の中には何が残っているだろう。
窓があって、ドアがあって、テーブルとベッドがある。そこに戻っていく。
心の外で、再度サイレンが鳴った。
今度は誰もが走り出し、逃げられる場所を探した。
僕も自転車にまたがって、全力でペダルを漕いだ。
心の内と外でサイレンが重なり合う。耳を塞ぎたくなる。だけど両手は埋まっている。
「教えて」
息が切れる。まだ何も始まっていない。あと、どれぐらい待てるだろう。
息が切れる。
「教えて」
ジリジリ、ジリジリ。単調な音があちこちから聞こえてくる。
まごついた誰かとぶつかりそうになる。慌ててハンドルを切る。
遠くで悲鳴が聞こえる。
明かりの消えた真っ暗な建物が目の前を通り過ぎていく。
サイレンが、突如止まる。
僕はブレーキをかけて自転車を下りた。
道端で少し休むことにした。街路樹が植えられている。
息が切れる。深呼吸をする。
心の中に、暗闇の広がるのが分かる。サーッと。凍りついたように。
ここはどこなのか。僕は誰なのか。
もう1つのサイレン。僕はうずくまり、両手で顔を覆う。
ジリジリとジリジリと。単調な音が続く。
ジリジリとジリジリと。
ジリジリとジリジリと。