昨晩は編集学校物語講座・風韻講座OB/OGを中心とする読書会に顔を出した。
場所は四谷三丁目の「喫茶茶会記」
http://gekkasha.modalbeats.com/
テーマは世阿弥と『風姿花伝』
世阿弥はこの国の芸事に関する概念の多くをつくりだしたという。
抜粋のコピーがテキストとして配られて、解説と共に一人ずつ読んでいく。
エッセンスのエッセンスなんだけど、全然予習せずに手ぶらで行ったら案の定撃沈。
「花」であるとか「風」であるとか。分かりそうでぜんぜん分からない。
「物学(ものまね)」や「幽玄」など気になるキーワードが多々出てきた。
次回は最低限、『風姿花伝』を読んでから臨むことにしよう。
昨晩聞いたことから、ひとつ。知ってる人には今更ですが…
「初心忘るべからず」って世阿弥の言葉だった。世間一般での意味、
「その物事に初めて出会ったときの初々しい感動を忘れないように」
というのは誤りで、ここで言う「初心」とは「未熟な心」「未経験」のこと。
その頃の、あれこれ失敗した経験を忘れずに稽古しなさい、
自分のダメなところを絶えず意識しない、ということなのですね。
よって「初心に返る」などという言い方はもってのほかなのだとか。
昨晩のゲストは舞踏家の古関すま子さん。
最後にフランスにおける世阿弥の受容の話となった。
能そのものは1900年の頃には既に紹介されていた。最初はジャポニズムかもしれない。
(フランス現代演劇の父)ジャック・コポーの主催する演劇学校でも
能が全面的に取り入れられ、そのつながりで
コメディ・フランセーズの2つの劇場のうちの1つもその影響を受けた演目となった。
それまでのフランス演劇は時代考証をしっかり行い、
いかに歴史を正確に再現するかを目的とする「コピーの演劇」だった。
その時間で起きること、その空間で起きることの連続性・整合性が重要視される。
そこに対して能というものがリアリズムとは何か? 様式とは何か?
という疑問をぶつけた。
ここから生まれたものの1つが
セリフではなく身体表現を重視したパントマイムだったりする。
アントナン・アルトーは能とバリダンスに影響を受けて「憑依の演劇」を生み出す。
ブレヒトは「異化効果」へ。
そして20世紀後半、イェジー・グロトフスキの身体性を重視した演劇が
日本でもアングラを中心に受け入れられる。などなど。影響は深くて、広い。
五月革命の時期。
禅やヨガ、太極拳などの道場に多くのフランス人が通うようになる。
世阿弥の翻訳も読まれるようになる。
それから数十年。今や柔道も合気道も日本人ではなく
フランス人が国際大会で優勝するようになった。
上っ面を真似るだけではなく(もちろんそういう人も大勢いたが)、
実際に身体を使った学びを続けているがゆえに理解も深まっていった。
今や、日本人よりもフランス人の舞踏家の方が
日本文化や能というものに詳しくなっているのではないか。
本質を掴んでいるのではないか。
感慨深い発言や質疑応答は他にもあれこれあったんだけど
土方巽の『病める舞姫』は世阿弥の「しほれゆく花」だ
という話にはゾクッと来た。そこがつながるのか。
終えて外に出ると、12月の冷たい雨。