『僕たちのゲーム史』

編集学校の応用コース「破」のカリキュラムのひとつ、
クロニクル編集術の課題図書のひとつとして
さわやか著『僕たちのゲーム史』を読んだ。
http://www.amazon.co.jp/dp/4061385240/


スーパーマリオ」のようなゲームはなぜ生まれなくなったのか?
という問いかけから始まって、
スーパーマリオ」は実はアクションゲームではなかった、と切り出す。
この展開がうまい。さらっと1冊読んでしまった。


そもそも、「はじめに」の部分で
その歴史を語り始めるにおいてゲームとは何ぞやというところを
・変わらない部分(ボタンを押すと反応すること)
・変化する 部分(物語をどのように扱うか)


とで定義した視点が秀逸。
これはいろいろなところで使えますね。


ファイナル・ファンタジーのシリーズはアニメーションの演出に凝ったり
物語性を高めていった結果、Aボタンを押すだけになったとか、
スーパーマリオのAボタンは単にジャンプするのではなく、
従来のゲームのように敵を攻撃する・避けるといった単純な目的ではなく、
その物語世界を探索するための動作の起点であった、
といった指摘になる。なるほど、なるほど。


話の組み立てが編集工学的で、対比の軸の立て方がうまい。
同じ探索型アドベンチャーゲームであっても
日本のゲームは三人称で物語の世界観やキャラクター重視で発展した、
アメリカのゲームは一人称での体験を重視した。
(だからガンマンの視点でひたすら敵を撃つゲームが好まれる)


アメリカのゲームはゲーム機よりもPCで動かす前提だったため
プログラムを改変してそれを共有し発展させるという内側へと向いたのに対し、
日本のゲームは「ポケモン」シリーズのようにモンスターの交換や
ネット上でのやりとりなど
ゲームの外側のコミュニケーションがヒットの原因になった。
などなど。


一番感心させられたのは
『歴史について書くということは、「何を書くか」よりも
「何を書かないか」の方が重要』であるとしたこと。
単にヒットしたゲームを並べて寸評を加えたところで
それは歴史の「流れ」を語ったことにはならないんですね。
だから「ドラクエ」「ファイナル・ファンタジー」「ゼビウス
「ポートビア連続殺人事件」「ストII」「テトリス」「ぷよぷよ
信長の野望」「弟切草」「ときめきメモリアル」は登場するけど
女神転生」「グラディウス「MOTHER」ウイニングイレブン
桃太郎電鉄」「ギャラクシアン」「Dの食卓」については語らない。
潔い。スティーヴ・ジョブズを今回選んで、ビル・ゲイツは省くというような。
どれだけ売れたかではなく、どんな流れを作ったか。


最後、こんなふうに締めている。
『過去を継承しながら、過去にないものを作っていく。
 そういう矛盾をはらんだ営みの連続を、人は歴史と呼びます」
この人は歴史というものが何なのか、よく分かっている。