物語講座11綴蒐譚場:ゴダール

終日、編集学校:物語講座の「蒐譚場」
期間中に一度だけ行う、教わる側・教える側が一堂に会するリアルの場。
師範代は指南に集中するため、僕ら師範から上が準備をして当日の流れを作っていく。
終えた今、僕としては総じてダメってことはなかったけど、
どこかなんかうまくいっていなかったな。


担当したうちのひとつが、物語の映像編集についてのコーナー。
前半は『気狂いピエロ』を題材として
現在進行中のカリキュラム「トリガーショット」に絡めてカット編集術について。
こちらは編集学校の大先輩が担当。


後半が僕の方で、来月のカリキュラムが「編伝1910」として
評伝を書くことになっているので、歴史というものについての意識を高めたい。
素材としては『ゴダールの映画史』
ヒッチコックの『裏窓』、ジャン・ルノワールの『ゲームの規則』、
チャップリンフリッツ・ラングと膨大な量の映画からの引用と
時にはタイプライターを打ったりインタビューに答えるゴダール自身の映像などから構成される。
1988年から1998年にかけて2章ずつ製作された。全8章。


 1A「すべての歴史」1988年 51分
 1B「ただ一つの歴史」1988年 42分
 2A「映画だけが」1994年 27分
 2B「命がけの美」1994年 29分
 3A「絶対の貨幣」1995年 27分
 3B「新たな波」1995年 27分
 4A「宇宙のコントロール」1997年 28分
 4B「徴(しるし)は至る所に」1998年 37分


AとBとあるように対で構成される。
最初の章は「すべての歴史」その次は「ただ一つの歴史」と概観的な内容を対にしていたのが、
最終章は「徴(しるし)は至るところに」その前は「宇宙のコントロール」というように
どんどんパーソナルな方向に進んでいった。


この世に絶対的な真実というものが存在しないように、
純粋無垢な歴史というものも存在しない。
歴史とは誰かが何かのために語るもの。
語られることで、それが聞かれることで初めて、出来事の群れが「歴史」となる。
その視点の数だけ、取り持つ関係性の数だけ、歴史はある。


つまり、
1990年代 /フランスの / ゴダール による /映画の /歴史
とあるとき、
1990年代 /フランスの /「ゴダール」による /映画の /歴史
1990年代 /フランスの /『ゴダール』による /映画の /歴史
と括弧が強調されて行くような。


今回は「1A」の冒頭を1分と、「2A」の冒頭4分ほどを上映して解説。
「2A」は直接的に歴史とは何かについてインタビュー形式で語られる。
(インタビュアーが奥に座って顔を見せていて、インタビュイーであるゴダールが手前にいて背を向けている)
字幕からいくつか引用してみると、


「歴史家の仕事 明確な記述を行う 起きなかったことの明確な記述を行う」
オスカー・ワイルドの『芸術家としての批評家』より)


ヌーヴェル・ヴァーグの幸運は すでに豊富な映画の歴史を継げて 十分な数の映画を
 シネフィル 次に批評家として見て 独自に考えた
 歴史の中で何が重要で 何が重要でないか 欠落はあるが流れはつかんだ」


「未見の映画を見て 一つの軸のまわりに
 自分の歴史を描き 自分が 誰の後に来たかを知り
 その関係性で 自分の位置が見えてくる」


とある中で一番重要なのが、
「過去は語られても、歴史は語られていない」
「映画だけが 歴史を語ることができて
 歴史をつくる唯一のもの だが一度もなされていない」


とあって、どういうことなのか?
ひとつ言えるのは、
詩人ならば詩だけが歴史を語ることができるとするだろう。


僕が思うに、ひとつには、
映画というものが今もつくられ続けるのならば
それは永遠に未完のものであるし、
映画史もまた満足に語られることはないだろう、ということ。


もうひとつは、この世に存在する映画史というのは
1910年代にグリフィスがクローズアップを、
1920年代にエイゼンシュテインモンタージュを、というような
「客観的」かつ「外からの」記述に過ぎず、
それは「説明」ではあっても「語って」はいない。
映画それ自体がその内側からイメージの連鎖の群れで語らないといけない。


それができるのは、『気狂いピエロ』が映画を撮ることについての映画であって、
『軽蔑』に監督フリッツ・ラングを登場させて、
80年代以後は映像と音声を意図的に分断させてソニマージュという手法を推し進めた、
メタ映画的に映画を撮ってきたゴダールにしかなしえないのだということ。
映画を映画する映画。
ゴダールは映画を撮ることで映画について語り続けてきた。
映画の内側から当事者意識を持たないとその歴史は語られない。
だからゴダールは『ゴダールの映画史』を10年という時間をかけてつくった。


それはたった一つの視点からは語り得なくて、
1988年のゴダールと1998年ののゴダールは違うということもあって、
8章に分かれるということになった。


…という話なんだけど、時間が押して正味10分ほどだと何も伝わらなかったか。

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会場に流す BGM もゴダールのサントラから。


 01.『勝手にしやがれ』死
 02.『気狂いピエロ』 ミックとマック(Anna Karina)
 03.『女は女である』 アンシェラ、ストラスブールサン・ドニ
 04.『勝手にしやがれ』デュオ手にしやがれ』死
 05.『勝手にしやがれディキシーランド
 06.『気狂いピエロ』 ジャン=リュックのためのツイスト
 07.『One Plus One』 悪魔を憐れむ歌(The Rolling Stones
 08.『気狂いピエロ』 ピエロ
 09.『気狂いピエロ』 フェルディナン
 10.『勝手に逃げろ / 人生』 想像界
 11.『気狂いピエロ』 私の運命線(Anna Karina)
 12.『勝手に逃げろ / 人生』 ペルソンヌ氏
 13.『勝手にしやがれ』ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン
 14.『女は女である』 アンジェラの歌(Anna Karina)
 15.『中国女』    シューベルト:ピアノ・ソナタ第13番
 16.『勝手に逃げろ / 人生』 自転車
 17.『気狂いピエロ』 失われた夜会
 18.『気繰りピエロ』 いつまでも愛するとは言わなかった(Anna Karina)
 19.『恋人のいる時間』ベートーヴェン弦楽四重奏曲第9番
 20.『女と男のいる舗道』  女と男のいる舗道


『軽蔑』や『アルファビル』の音源もあったけど、今回は使わず。
ジャズを表立って使ったのは『勝手にしやがれ』だけ?
『勝手に逃げろ / 人生』がまだ無名だったガブリエル・ヤレドを起用ということで
アクセントに入れてみる。
『右側に気をつけろ』で Les Rita Mitsouko のレコーディング風景が使われているとあって、
取り寄せてみようとしたが、間に合わず。
『シネマクラシック』のシリーズのゴダールのが役に立った。
『中国女』のサントラって見つからないですし。


久々にイベントのプレイリストを作成したけど、なかなか難しいもので。
前半は明るくにぎやかで、『悪魔を憐れむ歌』へと違和感なく向かっていく流れ。
後半は落ち着いた曲、ジャズでも翳りのあるのをとしたら、
気狂いピエロ』の「フェルディナン」であるとか、ほんとに会場が暗くなってしまった。
主題歌だから必ず入れないといけない、という先入観は捨てた方がいい
あるいはそこが浮かないための流れをつくらないといけない。
iPhoneのイヤホンで聞くとの、広い空間で聞くのとは違う。