母語と外国語

青森に帰っていた間に
多和田葉子『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』を読んでいた。
http://www.amazon.co.jp/dp/4006022115


こんな一節があった。引用します。


「生まれたばかりの子にあらゆる言語を話す能力が
 潜在的に具わっているというのは素晴らしい。
 しかし、あらゆる潜在的能力を保っていたら
 一つも言葉がしゃべれない。
 だから、極端に言えば、たった一つを残して、
 残りの能力を取り敢えず全部破壊していくのが、
 母語の修得だということになる」


Twitter に流したところ、後輩との議論になる。


母語とは何か、という以前に
何をもって明確に日本語、英語と切り出すのがそもそも難しい。
そういう抽象的なものがあるという前提で僕らは日々暮らしているけど、
僕らひとりひとりの話す具体的な日本語は
それぞれ少しずつ違っていたりする。
なので言語のアイデンティティというのは
言語それ自体にはなく話し手の中にある。


明確に何らかの固まりをひとつ選んでるというより、
たくさんのパーツの中から無意識のうちに
選んだもの、捨てたものの集合体が
その人の自我なり母語を形作っている。
実態としてはそのルールというか方向性のようなもの。
それをものすごくざっくりデジタルに割り切ると引用した文章のような
私は日本語を選び英語を選ばなかった、ということになる。


言語はあくまでツール。
それぞれの人がそれまでの人生の中でかき集めたパーツから成り立っている。
その人の話す英語は、辞書や文法書そのものよりも、
テレビで見た洋画のセリフやそのタイトルのカタカナ英語、
高校の英語の時間での記憶に残ったちょっとした出来事などの
集合体なのである。