『神々のたそがれ』

昨晩は渋谷のユーロスペースに『神々のたそがれ』を観に行った。
http://www.ivc-tokyo.co.jp/kamigami/


監督はアレクセイ・ゲルマン
もう15年近く前に観た『フルスタリョフ、車を!』がとんでもなかった。
1950年代半ばのモスクワ、スターリン政権の末期という現実の場所を描いておきながら
へレクレス的未知の生物が闇の中で蠢いているような。
カンヌ国際映画祭で審査員のマーティン・スコセッシ
「何が何だかわからないけど、圧倒される」と語ったとか。


今回はさらにとんでもなかった。
地球よりも文明の程度が遅れている惑星に調査団の学者たちが紛れ込んで長いこと住んでいる。
ある学者はルネサンスの萌芽がとか言ってたが思いっきり見当はずれで
その国では大学は破壊され、書物は焼かれ、知識人は殺される、
民衆は地べたを這いずり回って生きている。
学者たちにできることはなく、ただ惰性のように生きるだけ。
そんな中で一人の地球人が神のように崇められ、貴族として君臨する。
その猥雑な情景を描く「だけ」で3時間。
しかし、そこに展開されるイメージの鮮烈さ足るや…


映画はその世界観をヴィジュアル的にいかに作りこむかが面白いし
そこに浸りたくて観るんだけど、
この映画はそれが単なる舞台・背景にとどまらず、
歴史・文化・文字・社会・習慣・音楽…、
一切合財をイチから作り出すような。
この途方もない想像力、
アンドレイ・タルコフスキーエミール・クストリッツァに並ぶ。
よくぞここまで作りこんだというか、お金を出してくれる人がいたというか。
日本やアメリカでは絶対ありえない。


ストーリーらしいストーリーはなく、
神となった男がぬかるみに囲まれた崩れかけた小屋の連なる巣窟の中を
腐敗した食べ物や散らばったガラクタを踏みつけながら
奴隷たちや他の貴族や医者とひっきりなしに出会う、それだけで2時間半。
最後の30分になって突如としてストーリーが生まれて怒涛の展開へ。
ああ、このラストを描くためには
確かにこの2時間半を現実の時間として体験する必要があるな、と思った。


もう一回観たところでわからないものはわからないんだけど、
未知の惑星を垣間見せるドキュメンタリーとしてもう一度観てみたくなる。
巷の凡百の映画と称するものはいったい何なのだろう、と思わせる。


4/17(金)は夜の回終了後
飴屋法水とヴィヴィアン佐藤のふたりによるトークショーを開催とのこと。
3/28(土)は町田康中原昌也だったらしい。