クラシックギターというもの

日曜の「ふくしま再生プロジェクト」のイベントの後、
出演して頂いた「ギタリスタスあだたら」の方たちと懇親会となる。
クラシックギターについての話になる。
上から3本の高音の弦はナイロンで、下の3本の低音の弦は金属だと聞いて、
あ、そうだったのかと。
父の形見のギターがそうだった。
これまで30年以上、どっちかが足りなくて間に合わせだったのだろうなと思っていた。
調べればすぐのことだったのに、調べることはなかった。


父はギターを弾きながら歌うのが好きだった。
ラジカセに吹き込んだテープが何本か残っている。
フォークやポップスではなく演歌だった。
演歌とクラシックが僕の中で結びつかなかった。
これまで何度か、10代の頃から、
ギターを手にとってみてはすぐ諦めるということを繰り返していた。
次に帰ったときはもっとちゃんと触ってみようかな。
埃がたまっていたら拭いておこう。


僕が「ギタリスタスあだたら」の方たちの演奏を聞いて思ったのは
いい先生・師に出会うことの大切さ。
強い気持ちがあれば独力で学び続けることも可能だけど
誰かが外から引き出すというのがないとなかなか広がっていけない。
日々の練習は足し算にはなるかもしれないが、掛け算にはならない。


何よりも続けようというモチベーションが生まれない。
自分がしているのは話を聞くということだけだと渡辺先生は言うが、
それがいつも変わらずできるというのはとても難しいことなのだろう。
なかなかいない。
逆に言うと、自分のことを話すというのは本当はとてもややこしいことなのである。
相手構わず、好きなようにただしゃべり倒すのではなくて。
向かいに相手がいる中で話す。聞き手はただ聞くのではなく、促すように聞く。
その関係性が必要とされる。
ギターもただ弾くというのではなくなる。
その音も誰かに向けられたものになる。


最後に先生は語っていた。
「技術や音色では人は感動しません。生き様で感動するんです」
ひとりよがりな演奏では、感動は生まれないということ。
そうしたいとは思っていても、なかなかできない。
ギターを弾く以外の時間にその秘密は宿っているのだろう。