多摩全生園

8時起き。9時にリフォーム工事。
壊れた食洗器を取り外して、代わりに棚を入れる。
リビングとキッチンを片付ける。掃除機をかける。
9時前に業者の方が到着して、10時には終わる。


11時半、妻の運転で外出。多摩全生園へ。
全国に13カ所ちいきあるハンセン病の療養所のひとつ。
かつてはらい病と呼ばれ、顔が、身体が崩れていく病気として恐れられ忌み嫌われた。
長らく隔離が最善とされ、発症すると家族から引き離された。永遠に。
それは今も変わってといない。治ったとしても外に出ることは許されなかった。
中で暮らす人たちは21世紀の今かなり高齢化している。


お世話になっている学校が昨年出たハンセン病に関する本に深く関わっていて
今も関係が続いているという。
今日は学校の方が入所者の一人にして陶芸家の方にインタビュー、
全生園が年に一度のお祭りだというので、じゃあ行ってみようかと。
誘われたのは妻の方だけど、秋晴れの暖かい日だったので。

カーナビに従って進んでいくと和光、朝霞、新座、清瀬、東久留米、東村山と大回りする。
東久留米市は僕が生まれたところであって。ああ、この辺りだったんだなと。


車を停めて園内を歩く。とても広い。
居住棟というか一階建て、二階建てのきれいな集合住宅が並ぶ。
取り囲む芝生が広い。
その周りの建物はことごとく古びて昭和の時代のまま時が止まっている。
集会所であるとか、面会者の宿泊施設であるとか。
今は使われていないのかもしれない。
面会者も今は都心のホテルに泊まるだろう。
というかもはや頻繁に訪れる元気な面会者という存在が今は皆無なのかもしれない。
集合住宅に近づくと、見る限り一世帯ごとの空間は必要最小限の小さいものだった。
四畳半ぐらいの部屋が、その窓が、一定の間隔で並んでいる。
震災から2年、陸前高田市の高台に広がっていた仮設住宅がこうだったな、ということを思い出す。


賑やかな音が聞こえてきて、広場に出るとテントが並んでいる。
陶器の食器やアクセサリーの販売、たこ焼きや焼きそば、焼き鳥など。
入所者の関わるものというよりも、周りに住む人たちが地域の祭りだからと出しているもの。
無理はなく雰囲気は悪くない。実際、全生園で閉じられるよりもその方がいいと思う。
学校のトレパンを着た中学生や高校生の姿も多かった。
僕らは焼きそばやたこ焼きをおいしく頂いた。
職員やボランティアに車椅子を押されて、年配の方たちがゆっくりと通り過ぎる。
その多くの方たちが楽しそうだった。
(楽しく過ごせる人しか外に出て来ないのかもしれない)
その指は折れ曲がり、何本かは失われている。
その顔は鼻が、目元が、崩れてしまっている。


公会堂にて入所者や周りの小中学校の生徒の作品が展示されている。
そこで陶芸家の方へのインタビューを聞く。
その作品も展示されている。
素人のリハビリとかそういうレベルではなく、名だたる作家の作品と遜色ない。
サングラスをかけている。視力は昔、失われたのだろう。
いろいろと話していた中で、心に残ったこと。
「病気は治ったけど指は失われて社会復帰はできない。
 だから陶芸で社会復帰しようと思った」


園内のスタンプラリーの台紙を配っていたので歩いてみる。
途中にハンセン病の資料館があった。
水俣市の資料館を思い出す。きれいごとだ、と言われた。
実際入所者との折り合いはよくないという。
施設の運営も異なる団体みたいで。
展示そのものは悪くなかったが、これは上っ面。
「世間一般に言われる」ハンセン病の辛さを見やすく並べている。
どんな病気か。どんな差別を受けたか。今はどうか。
実際の辛さはもっと別なのだろう。


一階では人権擁護団体? による人権クイズ。
回答用紙に5問答えて全問正解だと賞品がもらえる。
当てて賞品をもらえたけど、人権擁護ゆるキャラの人形など。
入所者と折り合いが悪いのもよくわかる。
ハンセン病は目的ではなく、手段に過ぎないというか。
何かに抽象化されたような人権とか、そういうきれいことではない。


15時にはスタンプラリーとか屋台とか全て終わって片付けが進んでいた。
車に乗って後にする。
小金井公園に寄っていこうかとなる。
夕暮れ。紅葉した木々。
大勢の子どもたちが遊具のある広場に群がって遊んでいた。
楽しそうだった。何も知らなくて、いや、世の中はそういうものだろうと。
歩いて、帰ってきた。