エチュード2

「足はまだ痛みますか?」
「ええ、まだ歩くのがやっとで。さっきの階段一人で上ってくるの、つらかったです」
「ベッドがあるから、しばらく休むといいですよ。
 …ええと、じゃあ、この部屋を使ってください。
 前に住んでた人が残してったものがいくつかあるけど、いらないものは捨てて。
 当面はドアの外に出しておけばいいよ」
「…あ、はい」
「慣れたらここの暮らしもそんな悪くはないから。
 じゃあ何かあったらまた聞いて。俺は廊下の突き当りの、右側の部屋にいるから。
 ノックしてくれればいいよ。夜遅くとか朝早くでなければ。
 じゃあ。ああ、その前に最後なんか聞いておきたいことあるかな」
「…あ、あの、なんでこの家はこんなに大きくて、部屋がたくさんあるんですか?」
「ああ、そうか。他の「住人」にはまだ会ったことないんだ?」
(頷く)
「部屋の中に引きこもったきり、全く外に出ない人もいるから
 俺も全員を知ってるわけではない。でも常にここに7人いることになっている。
 俺はそう聞いた」
「7人?」
「増えていくことはない。減っていくこともない。
 君が今日来たからその分誰かがここを出ていく。
 一番古くからいた人が。でも少なくともそれは俺じゃない。
 俺も君の一人、前としてここに来てる。来たというか。違うな。
 連れてこられたというのでもない。引き込まれたというか。吸い寄せられた。
 君だってそうだろう?」
(頷く)
「あの日は大雨が降っていて、傘がなかった。
 濡れながら歩いていて、ふと見上げたらこの家があった。
 門の奥に女の人が立っていた。その人も濡れていた。玄関が開いていた。
 目が合うと、門を開けてくれた」
「その人は?」
「入れ替わりに出ていった。今思うととてもあっさりと。
 その後どうしてるのかはわからない。
 それまでの現実の世界に戻ったんだろうと思う。
 君が昨日まで暮らしてきたような」
「現実…。ここは、現実では、ないの?」
「靴を脱いで、薄暗い廊下を歩いた。しんと静まり返っていた。
 雨が零れ落ちて床が濡れた。奥に脱衣所があって棚にバスタオルが積み重ねられていた。
 てんでばらばらの。ホテルのように白一色ということはない。
 一番上のを引き出して濡れた頭を拭いた。
 それはそれで確かな手ごたえのあるひとつの現実だった」
「出たいと思ったことはないんですか? ここから」
「最初は出たいと思った。でも、…出られない。
 簡単なことのはず。廊下を歩いて、階段を下りて、また廊下を歩いて、玄関から出ていけばいい。
 なのにそれができない。いつだってそうしようと思ったらすぐできる。
 今日じゃなくたっていい。明日だっていい。大学は夏休みが始まったばかりだった。
 バイトがあるぐらいだった。それもそろそろやめるつもりだった。そんなふうにして…」