ぬいぐるみというもの

小さい頃、子ども部屋の中にぬいぐるみがたくさんあって、
それが僕のか妹のか決まっていた。
青と赤のペンギンであるとか、揃いのぬいぐるみをもらうことも多かった。
夜はそれらたくさんのぬいぐるみを自分の周りに配置して囲まれないと眠れなかった。
暗闇の中、いろんなことが怖かった。天井に何かが浮かんでいるとか。


5年生の頃まではそうだったか。
ひとつずつ減っていって、最後は青のペンギンが枕元にいるぐらいになった。


あの時のぬいぐるみたちはどこに行ったのか。
母はゴミ袋に捨てたりせず、小さい子のいる誰かにあげたのだろうと思う。
なんかそういうことがあったのを思い出す。


しかしその先でどうなったのか。
特に思い入れを持たれることもなく捨てられていくこともあったのではないか。
想像すると切ない。
(そんなことを缶チューハイを飲みながらぼんやりと考える42歳、日曜の午後)


とはいえ、ゴミ捨て場にあからさまに捨てられているぬいぐるみというものを見た記憶がない。
ボロボロになって千切れそうになった。
なかなかそれができる人はいないだろう。見えないように捨てている。
(和歌山の淡嶋神社のように人形供養を行っているところに送る、という人もいるだろう)


この国では一年間にどれだけのぬいぐるみが生まれて、
どれだけのぬいぐるみが捨てられていくのか。
いや、死んでいくのか。
まだ形のあるもの、形を失いつつあるもの。
魂のこもっているもの、魂を持つことを許されなかったもの。
焼かれていくもの。置き去りにされて朽ち果てていくもの。


そんなことを思う時、姪っ子に正月、ぬいぐるみを与えるのはいいことなのか。
いや、その切なさを学ぶきっかけになればいいのか。
難しいものです。