物語が読めないということ

明日土曜が物語講座のリアル講義の日「蒐譚場」で、
昨晩は豪徳寺:本楼に関係者が集まってその映像コンテンツのリハーサル。
合間合間にあれこれ話す。


この国では物語を読めない人が増えたのではないか?
それはなぜか?


僕はこんなことを考えた。
キーワードのひとつは「葛藤」ではないか。
欲望を抱く、欲しいものがある、それが満たされない、そこから葛藤が生まれる。
そこにどう対処するか。


物質的に豊かになって欲しいものがすぐ与えられる環境で育った人は、
この現代社会においても一握りだとは思うが、
葛藤をコントロールする経験が少ないままとなってしまうのではないか。


あるいは。昔、遊ぶというのは
何もない原っぱで棒切れやボールでごっこ遊びをすることだった。
おのずと想像力が鍛えられた。
今は情報としてあらゆるものが提供されてしまった。
想像力を働かせる必要がない。
物事をこちらで組み合わせるまでもなく、組み合わせが向こう側から提示される。
葛藤を動かす力が養われない。


あるいは。コンプライアンスの求められる世の中。
目に見えない同調圧力がどんどん複雑化、広範化している。
強制的なルールの押し付けにあっては
そもそも自分なりに考えるということが
集団から排除されるきっかけになってしまう。
無難に生きていくには何事も事なかれ主義。
余計な感情は持たないほうがいい。


葛藤をコントロールする能力が乏しいと、感情をすり合わせる能力が乏しくなる。
自分の感情と、相手の感情と。
場合によっては手っ取り早い解決を求めて暴力に訴えるようにもなるだろう。


物語とは物事が意味のある順番で語られることだと定義すると、
そこでいう意味とは因果応報の関係性が多い。
その中心にあるもののひとつは葛藤の解決、となる。
葛藤を抱くこと、それが解決されることが読み手のカタルシスにつながるか。
得られないという人は何のために物語を読んだり聞いたりするのか、意味が分からないだろう。
あるいは自分に関係ないこととして時間の無駄と思うだろう。


今ってそういう世の中だと思うんですよね。
どうなんだろう。