ドッジボールというもの

運動神経のよくなかった、かつ、引っ込み思案だった僕としては
小学校の体育の授業は絶望的なまでに苦痛に満ちた地獄のような時間だった。
跳び箱、鉄棒、マット……
いや、その一番の象徴はドッジボールだ。
スポーツという名目で白昼堂々と弱い者いじめを行うようなもの。
何のために存在するのか、いまだに理解できない。
 
そういう僕もある意味ドッジボールは得意だった。
ただし、逃げるだけ。ただただ逃げるだけ。
必死になって生きのびて最後の一人になる。
だけど勝者ではない。
四方八方からひっきりなしに投げつけられて、ボールがぶつけられるまでそれは続く。
最初から敗者になることを運命づけられている。
僕はボールを受け止めることも投げることもできない。
それは身体的能力としてできないというよりも、カーストとして許されていない。
そう、思い込んでいた。
最後の最後、顔面にぶつかるボールは皮膚をこそげ落とすようでとにかく痛かった。
先生は、逃げずにボールを奪えという。いつも、どんなときも。
 
ドッジボールが楽しかったという人は存在するのだろうか。
大人になった今、日曜の午後に仲間を集めて公園で遊びたい、なんて人はいるのだろうか。
……大勢いるのだろう。そちらの方が多数派だろう。
もしかしたら日曜の午後の区民体育館では老若男女の愛好者が
気軽にドッジボールを楽しんでいるのだろう。
僕が体育館に近づかないだけだ。
 
海外にもドッジボールはあるのか。
アジアやヨーロッパやアフリカでも日本のような翳りを帯びているのか。
そんなことはないか。
欧米人は何の屈託もなくあくまでスポーツとして競技して
その達人たちのスピード感溢れるプレイは見ていて爽快なのかもしれない。
ドッジボールへの苦手感覚を無くすには海外の人たちとやってみるしかないんじゃないか。
日本人とやり直しても余計なことばかり考えてしまうだろう。
 
スポーツの夢を見ることがないので、あの頃の球技を夢の中で繰り返すということがない。
それだけは助かった。
今の僕は夢の中の誰かをせせら笑いながらボールを無限にぶつけ続けるのだろうか。
あるいは僕がどんなに投げ続けてもそいつはのらりくらり身をかわし続けて永遠に当たらないのか。
待ち構えた僕がボールをしっかりと受け止めて軽やかに投げ返す。
そんな夢だけは絶対に見ることはないだろう。