知人が近況を語る中に、物語講座を途中で断念したとあった。
自分の書きたいことを、と言われて他の人は出てくるのに自分は出てこなかったと。
物語とは自分が器となって自分の外にあるものを書くんだけど、その感覚を掴むのは難しい。
言い方を変えると自分の内にあるものが外にあるものを呼びよせて
そこで出会うものが物語になるというか。
世の中で見聞きしたものを咀嚼して自らの内に取り込んだものを書く、
というと内側に引きつけ過ぎている。動きがなくなってしまう。
書くとき、書こうとするときにまさに今出会ったモノやコトへの新鮮な驚きを書く、
ということなんじゃないかと最近思う。
自分の中に書きたいことはない、という人でも SNS でシェアしたいものはある。
むしろ書けない、という人こそシェアしたいものが多いんじゃないか。
しかしそのシェアされるものを書いた人がどこかにいる。
今更言うまでもないことだけど、10年も前に言われてるようなことだけど、
この世の中は書く人とシェアする人とに分かれたんだな。
いや、もちろんシェア中心の人もブログは書くし、インスタに写真は上げるだろうけど。
自分の書きたかったことを誰か他の人が書いていたらそれでいいという人と、
自分の書きたいことは自分の言葉で書きたいという人の違いというか。
そしてこのシェア型ならではの物語の紡ぎ方もあると思うんですね。
一人が書き切る、語り切るのではなくて
多くのシェア型の語り手が集まって少しずつパーツを支え合って
ひとつの大きな物語を語る、語り直していく。
仲間を見つけてそのテーマについて語り合うということからも物語は生まれる。
それは今に始まったことではなく、
歴史的な出来事が今に語られてきたというのがそもそもそういうことだけど。
後は誰がどこで最初のそのシェアを始めるかなのだろう。
そして次の誰がどうつないでいくか。
書くというと一方向だけど、シェアするというと双方向な感覚がある。
物語におけるシェアの担い手の役割を見直して見るべき時に来たんじゃないかと思った。
これまでは優れた書き手ばかりがクローズアップされてきたけど、
優れたシェアの担い手もまた脚光を浴びるべきなんじゃないか。