SNS時代の物語

今日は物語講座の講習会。
SNS時代の物語とは?」というお題が出る。


例えば。
受け取るメディアはスマホのように
画面が小さく、持ち運び可能で、いつでもアクセスできる。
逆を言うと、同じインターネット接続環境であっても
大型のデスクトップでダイヤルアップで接続料金のかかっていた時代とは
コミュニケーションの形態が異なる。
言うまでもなく、フォーラムや掲示板よりも
文字数の少ない twitter や LINE の方が適している。


例えば。
SNSはコンテンツの内容は問わない。
リア充」「非リア充」など、潜在的にどういうタグがつくことになるか、
「いいね!」をどれだけ押してもらえるかといった指標が独り歩きすることになる。
「私」はどれだけの人とどうつながっているか、
その状況こそがその人にとっての物語となる。
つまり、リンク(の可能性)=物語
ネット上で知り合った人が地球の裏側の悲惨な出来事に関するニュースをシェアして、
そこに「いいね!」と押すこと。
それが私的な最小単位の物語となる。


例えば。
コミュニティが正常に機能するには
そこにロール・ツール・ルールが(非)潜在的に共有されている必要がある。
ネットの書き込みが炎上することがあるのは
書き込む側のロールがアノニマスなまま特定を避けるからだろうなと思う。
そこに語り継ぐべき物語は生まれない。
他者が出会ったとき、長らく共有したいものがない。
ただ炎上という事実だけがあって、有機的なストーリーの展開を持たない。
あるとしたら紋切り型のストーリーの残骸である。
一時的なネガティブな感情に支えられた。


例えば。
物語とは世界認識である。
自分がこの世界と、社会と、家族と、自分とどう向かい合うか。
SNS は便利なようでいて、何よりも「閉じられることの快適さ」を提供する。
リンクというものは開かれているようでいて、実際には関係性を一方的に結ぶ。
リンク先を指定するということは閉じられる、ということだ。
どこからもアクセスされない URL はオープンなのではなく、存在しないに等しい。
語られることのない物語、聞かれることのない物語。