物語は必要とされているか?

世の中、物語が求められている。
駅の壁面広告や車両の中吊り広告を見ると
ここ数年更にその傾向が強まったように感じられる。


しかし、実際そうなのだろうか?
逆なのではないか、と時々思う。
・広告の中だけで、物語が必要とされている。
・世の中が物語というものを求めなくなったからこそ、求める姿勢が新鮮に映る。


かつて物語とは身近に聞いて、自ら語り伝え、共有するものだった。
極端に単純化すると
今、物語はテレビやインターネットの向こう側にあるものを
コンテンツとして消費するものとなった。
自分はその担い手ではないし、語ること・語られることを体験し得ない。
そんな断絶があるのではないか。


そこで求める物語の型はパターン化されているほどよく、
悲惨すぎるほど困難な状況(現実の自分)を経て
ハッピーエンド(理想の自分)に至るというものが結局最大公約数的に支持される。
物語は、必要最小限の期待を満たすものさえあればいい。


物語とは意味を共有することである。
それは他者の集団と接し、意味足り得るものを交換し共有することに最大の力を発揮した。
しかしそこには理解されないという恐れ、
今の言葉で言うとリスクに変換され、ゆえに回避されることが求められるようになった。
自らの属する集団の内側でだけ、「意味」は共有されればいい。
物語は自己を正当化するもの以外、できれば欲しくない。


そんな状況で、広告という向こう側からやってくるメディアから
物語というものが主張されるのである。
それは上記の自己正当化のやましさを癒やすものとして受け止められているのではないか。
だからそれは現実感がなければないほど、いい。
今のままの自分では購入することが不可能な都心のタワーマンションこそ、
物語という言葉が乱発されるようになる。


ネット上の言説をザッピングしていると
今の世の中は知性や感性が劣化しているという。
それは日常の物語性の劣化でもあるのだと思う。