読書というもの

妻が先週、文庫になった寺田寅彦の随筆集を何冊か買ってきた。
まだ先になるというのでたまたま目に留まった一冊を借りて読んでみることにした。
『銀座アルプス』というタイトルで、例の洋食屋のことだろうかと。
カツカレー発祥の店。
 
数ページ単位の随筆が続く。
だからと言って読みやすいわけではない。
ひとつの段落が長く、その中にみっしり言葉と思索が詰まっている。
こちらも居住まいをただす必要がある。
そして書かれていることも、昨今電車の中で見かける人は苦味顔でという、
この当時から日本人はそうだったのかという発見のある一方で、
当たり前と言えば当たり前の日常ばかりが綴られる。
科学的大発見に伴う思わず人に話したくなるようなエピソードや名言の羅列、というものではない。
最初はかなりとっつきにくかった。
 
それが100ページほど進んできたところで変わった。
寺田寅彦の文体が僕の身体に馴染んできて、
寺田寅彦の文章というよりも寺田寅彦の声に触れる、その人柄に触れるという感じになってきて、
途端に面白くなってきた。
もっとその話を聞きたい、というような。
ああ、読書ってこういうことだったなと久しぶりに感じいった。
 
最近話題の本を読む。
奇抜な内容で最初のページから読ませる。読み物として面白い。
だけど読み終えた後のあの空虚な感覚。
ただ刺激だけを受け取って疲れた、はい次へ、というような。
いや、もちろん世の中そういう本ばかりではないけれど。
 
結局のところ人は文章というものを介して
その人の声を聞く、その人柄に触れるものなのだ。
そこにこそ読書の魅力がある。
 
このところピーター・バラカンの書いたディスク・ガイドを見つけては読んでいる。
あれも僕の知らなかったアルバムがあるかもという思いだけではなく、
ピーター・バラカンの声を聞きたくて読むんだな。
ラジオのあの語り口を知っているだけになおさら。
 
古来、読書とは音読するものであった。
必ず声に出して読むというフィジカルな体験だった。
黙読することになったのは実は近代になってからだという。
声が内面化することは確か無意識の発展につながったんだったか。
それは社会的な無意識にもつながっていく。
そこに音としての声がないからこそ、
その名残としての声を人は追い求めるのかもしれない。