マーセル・セロー『極北』

「世界の終わり」というテーマが昔から大好きで、いろんな小説や漫画を読んできた。
北斗の拳』やさいとう・たかをの『サバイバル』なんかも含めて。
 
先日、神保町PASSAGEに搬入に行って
一通り手続きや作業が終わった後で周りの棚を見ていたら
マーセル・セロー『極北』という文庫本が目に留まった。
最上段にある「ろしあ亭」の棚。
PASSAGE と同じ並び、数軒先のロシア料理の店ですね。
日々忙しくて最初に本を並べてそれっきりなのか、
僕なんかはびっちりと隙間なく20冊以上詰め込んでいるのに
ここは3冊か4冊ぱらぱらと置いてあるだけ。
逆にそういう方が目に留まりやすいものであって。
なんだろう、と気になる。
僕も『極北』を手に取った。
 
ご主人が読んだ本を売っているのだろう。
(と言ってももう何年も入ってないので働いている人の記憶はないが)
書き込みや破れはないものの、適度に読み込まれたくたびれ感があった。
450円。この値段なら、ま、いいか。
訳が村上春樹だった。セローという名前には覚えがある。
ポール・セロー。『ワールズ・エンド』という本を一冊読んだことがあった。
こちらも村上春樹。こちらは世界の終わりではなく、世界の果て。
(読み終えた後で訳者解説を読んでいたらマーセル・セローはポール・セローの息子だった)
 
ゴールデンウィークに読み始めて、時間のあるときに少しずつ読んだ。
世界の終わりというと、陰鬱な内容となる。
極限状況をいかに生き残るか。
それは他人に対しても自分に対しても容赦なく厳しく接することになる。
その日々を簡素にして抑制の利いた一人称の文体で淡々と語り続ける。
最初のうちは陰鬱なだけで大きな動きはないが、
物語が大きく動き始めて作者の視野の広さ、見通しの深さに包み込まれたとき、
やめられなくなった。
なんでこんなリアルなんだろう、この作者は途方もない想像力を持っている。
読んでいてため息が出た。
 
災厄か戦争か、あるいはもっと違う何かか。
経済や産業が破綻するとあとは歯止めが利かない。
持たざる者は持つ者から力づくで奪う意外に空腹を満たす方法がなくなる。
飢えや病気で、あるいは暴力行為で人がどんどん亡くなっていく。
荒廃した世界に残された人類はあとどれだけだろう?
「世界の終わり」をテーマにするとだいたいがそういう背景になる。
この『極北』もそう。
では、他と分かつものは何なのか?
訳者解説で村上春樹は「意外性」と書いていた。
確かにこのストーリーは絶えず思いがけない方向に導かれていく。
なのに奇を衒うわけではない。どの場面にも必然がある。
 
僕が思ったのは、希望の持たせ方だろうか。
世界の終わりを前にして主人公の内も外も諦念で覆い尽くされている。
振り払うことはできないし、笑うこともできない。
生き残る希望を50%でも持たせたらそれは嘘だ。10%でも嘘だ。
この主人公は0.1%ぐらいしかもっていない。信じていない。
しかしその0.1%を何に託すか、何に象徴させるか、というのが巧みだった。
ありえる、と思わせた。
 
これは映画化してほしいな。
乾いたリアリティを追求する映画。