0/1/-1

最近また「死」について考えている。
僕が生きる/死ぬってことではなくて、抽象的な、世間一般的な概念として。

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生を「1」と捉えるとき、死は「0」なのか「-1」なのか。


死は無であるのか、それとも生の裏返しなのか。

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儀式としてのカニバリズム。食人。そのありえる姿。
例えば火葬場で焼いた後の灰を列席者にごく少量ずつ配って、
口に含んでもらい、水で流し込む。
その人の魂なのか肉体なのかわからないが、
常に我々と供にありますよという意思表示となる。


禁忌。タブー。
動物たちが通常、自らの群れの死体を食べないのと同様に、
人間たちも通常、身近な死体を食べることはない。
同属の肉を食べることにより DNA が云々かんぬんという話はよく聞く。


人間は進化の果てに知性を得て、
共に殺し合ってはならないという制限を排除した生き物であるのなら、
なぜ共にその肉を食ってはならないという制限の方は保ち続けたのだろう?


それは理性の問題なのか?


不慮の事故で恋人を失った若者は両親の承諾を得て、その体のひとかけらをもらう。
偉大なる指導者を失った組織にて、「私の体を分け与えよ」との指示が残されていた。


××の国の××には既に、行方不明の子供の××が××っているのかもしれない。

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なぜ「死」を扱うビジネスがもっと大々的に展開されないのか?
後ろめたいからか?慎みの問題なのか?イメージがよくないのか?


人生設計の延長線上に、誰にでも等しく訪れるじゃないですか。
身近な人の死や、自分の死というものは。
このご時世、その人のライフプランニングに合わせて手軽にスマートに
葬儀の手配や墓地の購入や戒名などあれこれが
オールインワンに手配できてしかるべきではないか。
つまり、そういうポータルサイト。そういうコンサル業者。
あるのかもしれないけど、まだまだ一般的ではないように思う。
表立って活動しないのか。


身の回りの死に関する様々な手続きが
依然地味なままで人と人との直接のやりとりを要する。
ここに何か暗示的なものがあるように感じられる。


生の様々な局面がどんどんデジタル化されていってるのに、
なぜ「死」だけがアナログで語られなければならないのだろう?
人は結局そこに戻っていく、立ち返っていくからなのか。


結局のところ人の生き死には「0」や「1」のようなデジタルでは表せない。
そういうことなのか。

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はっきりとした白も黒で割り切ることができないのならば、
生を表す色は灰色ということになり、死もまた灰色ということになる。